シベリア抑留記。戦争体験の中でも特に過酷だったと言われるシベリアでの抑留生活をありのままに告白した貴重な体験記。

シベリア抑留記-Ⅰ

ソ連抑留の手記

元第百二十六師団司令部、人事係陸軍准尉

伊藤常一

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原文は「シベリア抑留」を「ソ連抑留」としている。ここでは原文を尊重し、「ソ連抑留」で統一させていただく。

 終戦後十五年、その間中国南方等を舞台に戦時、戦後のものを取り扱った出版物、映画等は有るがソ連版なるものは余り見受けた事はない様に思われる。従って多数の日本人がソ連に抑留され帰国しているにもかかわらず、その抑留生活の模様及びソ連の実態を知っている人は非常に少ないようである。
 そこで私は終戦直前から入ソ復員に至る間の状況を記憶にある範囲で順を追って述べてみたいと思う。尚、この手記を発表するにあたり、戦闘中或いはソ連抑留中死亡した幾多の同胞に対し、衷心より哀悼の意を表す次第である。

関東軍の最後

 昭和二十年八月八日末期、ソ連は日ソ不可侵条約を踏みにじり中国解放という美名のもとに、満ソ国境を全面的に越境侵略を開始したのである。当時、関東軍は兵力を南方移送のため、極度に削減され膨大な国境線を既設の陣地によって守ることを不利と見て、全面的に守備線を縮小。要所要所に新規の陣地を構築すべく国境第一線陣地、及び屯営にはごく一部の兵力の他は軍属と軍人の家族のみを残していたのである。私の属する第百二十六師団は、軍命令に基づき東満の八面通の山中に築城作業中であった。
 大陸の夏は夜明けも早く、東天白む午前三時頃、空陸相呼応、ソ連軍は遂に攻撃を開始したのである。
「玉砕、玉砕、また玉砕」
司令部に入る電話は、
「これが最後です。全員玉砕します」
を最後に、ことごとく通信は途絶えるのであった。一方屯営近辺にあった一般地方人、軍人家族等は逃げるに逃げられず、殺される者、拉致される者、自害する者、暴行を受ける者、又集団で火薬庫に入りもろともに自爆した者等、悲惨の限りであったことは後日知ったのである。
 かくてソ連軍は国境第一線陣地を次々に突破。師団主力と戦闘を開始したのであるが、前述の如く山中築城工事のため兵器の不備と南方移送による不足で、戦うに武器なく遂に八面通を放棄転進しエツカ地区に於ける大決戦で決定的大打撃を受け支離滅裂となった(筆者はこの時自決を図ったが死にきれず未だに世にはばかり居るのである)。止むなくゲリラ戦によってソ連軍の前進を阻止すべく黄道河子の山中に集結。現地部隊の一部と協同戦線を張り作戦準備中、遂に軍司令部から終戦命令が下達されたのである。時に八月十九日であった。

敗戦は半信半疑

「ああ、何たる事ぞ。戦闘開始して僅かに十日余り、その名を誇った関東軍が陛下の命令とは言いながら無条件降伏をする。白旗を掲げよとは。デマだ、謀略だ。全く信じられない」
 遂に命令下達の伝令将校は斬られ、最後まで戦うことを誓って山中に立てこもった者も数知れず、自害、放心、逃亡、その混乱ぶりは言語に絶した。
 翌二十日、ソ連軍によって遂に武装は解除され、念入りに手入れされた武人の魂たる刀剣は彼らの手によって棒切れの如く黄道河子の駅前に山と積まれ、将兵は虫けらの如く扱われたのである。
 一方司令部は師団長以下幹部全員彼らの自動車に乗せられ、厳重なる警戒のもとに牡丹江に収容されたのであるが、この間黄道河子から牡丹江市に至る国道沿いの山中には終戦を知るや知らずや彼我の銃声が盛んに聞こえ、沿道には昨日までの激戦を物語るように人馬の死体累々とし、破壊された車両は至る所でくすぶり、その光景は実に惨憺たるものであった。
 ソ連がスターリングラード戦(ドイツとソ連)に全力を集中していた昭和十六年、いわゆる関特演(関東軍特別演習)の頃、その兵力実に百万と言われ、ただ単にソ連に対し無言の威圧を加えるのみで日ソ不可侵条約に基づく国際信義を守り通してきた関東軍もかくしてソ連の軍門に降したのである。

■入ソをする為の集結
 司令部要員の収容された所は牡丹江駅から約三百メートルほど離れた協和洋行跡の建物で破壊された牡丹江の駅など一目に見え、又この地区の交通の要点でもあった。師団長(在ソ中、獄舎で死亡)はソ連機でただちに連行されたので、参謀長以下ここで不名誉な捕虜生活が始まったのである。

人種的偏見のないソ連人

 昼夜を問わず至る所で聞こえた銃声も日毎に静かになり、満人家屋には人の姿も見え、夜間灯さえともるようになった。
 一方ソ連兵と、満人、朝鮮人を恐れて、或いはこれらに追われて山中に隠れていた一般地方人、軍人家族等も今は総てを諦めたかのように目的もなく只ぼう然と集まってくるのである。
 頭を丸坊主にして軍服を着た真っ黒い顔の娘たち、今は声も涙も枯れ果てたか声もなく、泣く幼児を両手に鍋釜背負った見るかげもない母親の姿、飢えのため乳も出ず眠るが如く死にゆく我が子を涙ながらに葬る若き母親、精根尽きて倒れる負傷者、等々涙なくして迎えられぬ日々が続いたのである。
 収容当初は非常に警戒していたソ連兵も、我々の無反抗を覚ると人種的偏見のない彼ら独特の親しみのある態度で接してきた(だが彼らの命令は絶対的で、これに逆らうことは死を意味することであったのは言うまでもない)。我々はこの機に乗じて邦人避難民に対し、在庫の食糧供給を申し入れ、許可を得たので、直ちに炊き出しを開始し、これらの人々に分かち与えたのであるが、これが我々の唯一つの日課であった。この頃からソ連側の命令で、一般邦人はラコー収容所に誘導され、当初列をなした避難民も段々少なくなり、収容所前に群がるのは三八式歩兵銃を持った朝鮮人の排日グループや、
「昨日まではお前らが大人で我的(オーデ)が苦力(クリー)だったが、今日からは反対だ。オイ苦力、日本苦力」
等々、罵倒を浴びせに来る満人のみとなった。

抜け目のないソ連

 ソ連兵はその命令に基づいてか国境第一線地区の物資は直ちにソ連領内に搬入を開始し、南満の非戦闘地区の重要施設はソ連の手で時には非武装の日本兵まで駆り立ててこれを押さえ、文明的物資の大部分は南満鉄道を利用し、取り敢えず沿海州に運び、満人もまたこれに負けじと略奪をほしいままにしたのである。ソ連兵個人としては殊に時計を欲し、両腕に二個も三個もはめ得意気であり、その実見方も知らず、針が止まると捨てる者が大部分であった(しかし日本人が巻き方を教えてからは大事に持っていた)。
 かくしてソ連は大東亜戦の末期に戦うこと僅か十日にして満州に於ける膨大な物資を掌中に納めた上、関東軍将兵を極秘裡にソ連領内に輸送すべく行動を開始したのである。

信じきれない「ダモイ」の言葉

 今は炊き出しの必要もなくなった我々は為すこともなく、只思うことは別れ別れになった家族の身の上と帰国のことだけだった。そしてこの頃からソ連兵の口から
「ダモイ(帰る)」
という言葉を耳にし始めたのである。(筆者が最初に覚えたロシア語である。)
 八月も終わらんとする頃、ソ連兵の「ダモイ」の言葉を裏付けるように、他の収容所にいた日本兵が厳重なるソ連兵の警戒のもとに我々の収容所前を通り、牡丹江駅に向かい始めたのである。大命による降伏とはいえ捕虜である。囚われの身となって僅か十日、果たしてこのまま日本に送還されるのだろうか?隊伍を組んで通る同胞に声をかけ、その真偽を確かめたいがそれもならず、只羨ましげに又不安げに見送るのみ。ソ連兵に聞けば、
「ダモイヤボーニエ(日本に帰る)」
だけである。一隊また一隊、多い日には二隊も三隊も通過。牡丹江駅を発ち、我々の郷愁の念はいやが上にもかき立てられるのであった。しかしその反面、ウラジオ経由で日本に帰るのだというソ連将兵の言うことに疑念を持つようになったのである。
 八月下旬から九月上旬、大陸の夏は未だ暑い盛りである。日本に帰るのに何日かかるかはソ連任せで知る術もないが、それにしてもこの暑い最中に何が故に防寒被服一式を携行させるのか、又身体検査までして健康なる者のみの千人を以て一隊とするのか?通過する日本兵たちは見送る我々を見て微笑みかけ、これを引率するソ連将兵も又日本に行けると皆嬉しげである。
 司令部要員の大部分の者(特に参謀長以下将校連)が、この「ダモイ」を信じていたが、一部の者は信じ切れず、絶えず意見の衝突をみたのである。
「陛下の命による降伏なのだから、ソ連兵の言う如く我々は必ず(ウラジオ経由で)内地に帰れるんだ」
「では参謀長、食糧一ヶ月分以上を携帯するのは内地の事情から見て分かるが、この暑いのに防寒具を持ち、又健康人千名の編成をどう思いますか?」
今は敬語も使ったり使わなかったりである。
「ううん、なるほど。だが、必ず帰れる」
あくまで希望的観測で根拠がない。遂に一部の者は、万一に備えて司令部の通訳を教師にロシア語の勉強を始めたのである。

 前述の如く個人的に親しみの持てるソ連兵は、我々のロシア語の勉強を歓迎すると共に、興味を持ち始めたのである。一日三、四時間、後はソ連兵を相手に実地勉強である。このため彼らとの間に笑い声さえ交わされるようになり、その親しみは一段と深くなってきたのである。

手まね足まねの片言会話

 帰国のみを信じている将校連は、表を通過する部隊を見ては我々の勉強に批判の目を向け、又ソ連将兵の間にも
「おまえ達は日本に帰るのに、何故ロシア語を習うのか?」
と首をかしげる者も多く、万一に備えてとはいうものの、半ば退屈しのぎに始めたような勉強で、ある時は二日も三日もさぼり、又始めるのであった。今は時計を持たぬ我々は、やっと覚えたロシア語で彼らをつかまえては
「今何時?」
と聞くと、彼らは時計を二個も三個も持っていながら、
「ネヅナーユ(知らない)」
である。又、彼らも我々に分かりやすいように単語並べ的に話しかけてくるのである。
「日本の娘はきれいか?」
「とてもきれいで親切だ」
「でも満州で見る日本の娘はきたないではないか?」
「おまえ達が攻めて来たからあんな姿になったんだ」
男の本能で、彼らの話もやはり女のことが先になる。
「早く日本に行ってみたいもんだ」
難しい話になると手真似足真似、実に滑稽であり通ぜぬ時にはすぐ通訳を呼ぶのである。こんな会話を繰り返すことによって、我々のロシア語も段々上達すると共に、一時的にも複雑な気持ちを忘れることが出来るのであった。

さすらいの旅を続ける避難民

 九月も過ぎ十月も半ばとなると気候の激しい大陸、朝晩の寒さはひとしお身にしみてくるのである。昨日も一隊、今日も一隊、この部隊の合間にラコー収容所に集結していた一般邦人(殆ど婦女子と老人)が、相も変わらぬ惨めな姿で牡丹江の駅に集合し始め、我々がどこに行くのかと声をかければ、
「寒くなったので収容所は解散になった。汽車で南満方面に行けと言われた」
と悲しげな表情で答えるだけである。そしてこれら避難民を乗せる列車は二日経っても三日過ぎても来ないのか、破壊された構内や倉庫の軒下で飢えと寒さに震え、時には幼児の亡骸を葬る母親の姿をまたも目の当たりにするのであった。そしてこれらの人々は時折入る有蓋貨車に乗せられて、あてど無き流浪の旅に発つのであった。

牡丹江を後にして

 我々の収容所前を、果たして何万人或いは十何万人通ったか記憶にないが、十月も過ぎる頃には殆ど見受ける日もなく、我々の気持ちも落ち着きがなく
「司会部要員は一体どうなるのか?」
とわめく者さえ出るのであった。
 十一月八日、遂に来るべき日が来た。
「ダモイヤボーニエ(日本に帰る)」
聞き慣れたロシア語で集合を命ぜられたのである。
「いよいよ我々の番が来た。帰国だ」
瞬間狂気の如く、皆小躍りしたのである。しかし冷静になれば、やはり不安な気持ちは湧き上がってくるのであった。
 集結した所は旧日本軍隊の兵舎跡で、我々のために防寒服一式と食糧品一ヶ月分(雑穀)が用意され、着たきりスズメで日用品もない我々にこのような財産が増えたので気をよくして身体検査に臨んだのである。
「ダバイイジスダー(ここへ来い)」
両腕、尻、両脚と順々に皮をつまんで見て
「ハラショウ(宜しい)」
と至極簡単で殆ど合格である。終えて将校は別となり将校一名を含む准士官以下千名の一隊を編成し、牡丹江の駅に向かったのである。一夜明けた十一月九日、有蓋貨車の中を厚板で三段にし、鶏の如く詰め込まれ、ウラジオに向かうべく牡丹江を後にしたのである。

 八月の十九日、ソ連の軍門に降ってから二ヶ月半、運命を天ならぬソ連に委せて数々の想い出を残し関東軍の最終隊と言われたダモイ列車は住み慣れた満州を後に一路ウラジオに向かうべく前進するのであった。

ダモイを信じ貨車の旅

 有蓋貨車の中を上、中、下の三段に仕切るとどの段も座っていて頭がつかえ、横になるより他はなく、食事は座ったまま身体を二重に折るようにしてとり、時折中央に備え付けた暖炉の側に来て背伸びをするのである。車中には上部に小さい窓があるだけで、もちろん電灯もなく、進行中は貨車の大戸を閉ざされるので昼間でも薄暗く、夜間は吊りランプ一つが灯るだけで真に不自由な生活である。
 今は司令部要員もちりぢりになり何処を向いても知らない人ばかり。だがどの顔を見ても車中の不自由など意識しないのか、皆明るい表情である。耳をすませばそれもそのはず、心はもう内地に飛んでいる。
「東京は焼け野原だとよ。俺の家なんか、どうなっているかなぁ」
「内地に帰るのはいいが、これから先、どうして食っていけるかなぁ」
思いは至極単純である。ああ、この兵たちもやはり日本に帰ることを信じているのだ。
「ダモイヤボーニエ」
是非真実であって欲しいと、一人心に念ずるのであった。そして独りぼっちも同然のようになった。私は元の階級もあったせいか、兵たちが勧めるままに一番上の段に座ったのである。

同胞よ安らかに眠れ

 小さな窓越しに外が見える思い出深い野山ばかりである。ふと線路際に目を落としてみれば、時折白い棒切れのような或いはペシャンコになったボロボロの布片の間からも白く冷たい塊が薄く積もった粉雪の切れ間に、枯れ果てた野草を枕に怪しい走馬燈の如く走り去るのである。戦い終わって二ヶ月半、無情にも大陸の土と化してゆく同胞の悲しくも哀れな姿であろう。スイフンガに近くなったのであろうか、下段の方で誰が口ずさむか国境の町の歌が低く流れてくる。
「ソリの鈴さえ淋しくひびく。雪の広野よ、街の灯よ」
かつて軍国主義華なりし昭和十年頃、日本全土を風靡したセンチメンタルな曲である。
「同胞よ、安らかに眠れ」
熱い涙は止めどなく流れるのであった。
 汽車が停まると真っ先にソ連兵が下車し、我々の逃亡に備えて警戒し、満州内にあるせいか絶対下車をさせないのである。しかしながら生理的現象は如何ともし難く、身振り、手振り、尻をまくって用便のための下車を要求しても応ぜられず、やむなく貨車の大戸を少し開けて必要な部分を出しては代わる代わる放出するのである。列車が進行中でもこの要領で用を足すのだから、下段の大戸際にいる者はやりきれたものではない。しかしこのようなこともウラジオに着くまでと皆辛抱しているのであるが、国境を過ぎる頃、前車両の兵若干名が夜陰に乗して逃亡を企てて発見され、自動小銃(通称マンドリン)により全員射殺され、警戒も一段と厳重になり、車中から尻を出すのも命がけとなったのである。

初めて踏んだソ連の地

 国境線をいつ通ったかは不明であったが、東満の山々を後に見渡す限りの広野を過ぎ、人家もまばらに見えてきた。
「ソ連領内に入ったのだ」
と誰かが叫んだ。なるほど列車の進行するにつれて色々な物が至る所に山と積まれている。重要な物らしい所にはシートが掛けてあるので良く分からないが、電気のトランスから電線、電柱の根切りにしたものまで種々雑多である。また干燥馬糧と間違えたのか、畳が何箇所も野ざらしに積まれている。私の側でこれらを眺めていた一人が突然うなった
「ううん、ロ助(ロシア人)は火事ドロみたいだ」と。

 ご承知のように、シベリア鉄道はモスクワを起点としてウラル山脈の山中チエリヤビンスクから東に七千三百キロメートル、シベリアの大平原を横断してハバロスクを経てウラジオストックをその終点とし、また第二シベリア鉄道はタイシエットからコムソリスクを経てハバロスクに結び、ウラジオに通じたのである。一方、満領内からシベリア鉄道に結ぶ線はハルビンを起点とすればチチハル満洲里を経てカリムスカヤに通じ、また牡丹江、スイフンガを経てウオロシロフを結び、更に牡丹江から虎林を経てイマンに通じていたのである。しかしその後の諸情勢、特に日本の進出等により、これらの線は国境線を以て封鎖されていたのであるが、終戦と同時に復活され満領内にあった物資や関東軍将兵の大部分は、この三本の鉄道によりソ連内に輸送されたのである。

運命の岐路ウオロシロフ

 ソ連領内に深く入るに従い、我々の気持ちは動揺し、兵たちの間にも
「俺たちは本当に日本に帰れるのか」
と疑念を抱き、不安な面持ちで私に聞きにくる者もある。
「まあ、もう少し待て。ウオロシロフに着き、汽車が発車すればハッキリ分かる」
「どうしてですか?」
この兵たち、まだ分からぬらしい。
「よく落ち着いて聞けよ。汽車が南に向かって走り出せば、ウラジオだ。北に向かえばハバロスクだ。後は言わなくても分かるだろう」
「うん、そうだ、南だ、南だ」
南の方に向かって手を合わせたい気持ちであろう。ソ連側より配給された黒パンならぬ赤パン(小麦をモミのまま粉にしたのかモミガラのようなゴミがいっぱい混じっていて、薄赤くちょうど赤レンガのようなパン)をかじる口元も何時しかこわばってくるのである。それから幾時間、ホームらしいものは見えないが比較的大きな駅らしく雪の間に幾条も幾条も鉄路が走っている。例によって大戸を開け、代わる代わる用を足す。
「オイ、ここは何処だ。割合大きい駅だぞ」
「ウオロシロフじゃないかなぁ」
確かにそうであろう。ちょうど警戒兵が来たので私は聞いてみた
「グジェー(何処か)」
その兵は四方を見回してから
「ウオロシロフ」
ポツンと答えてマンドリン銃を脇に歩いて行く。
「ああ、我々の運命はここで決せられるのだ」
と私は心密かに思ったのである。

南北論争

 外は相変わらず降るともない粉雪が吹き飛び、太陽の位置すら分からない。
「方角はどうなっているのだろう。南はどちらだ?」
残念ながら私は南なるロシア語を習わなかったのである。いくらジェスチャーの達者なソ連兵でも、方角だけは通ぜぬとみえて
「ニエート(分からない)」
の一点張りである。
 何時間停まっていたか良く分からないが、暖炉用の石炭、パン、水などの補給を終え、黄昏せまる頃遂に発車したのである。小さな駅をいくつか過ぎた頃、誰かが
「列車は北に進行している。シベリアに連れて行かれるのだ」と騒ぎ出した。
「いや違う、南だ」
「なあに北だ」
我々のこの場合の南北の違いこそ、重大であり深刻な問題であった。車中上を下への大騒ぎになるのも当然である。
「オイ皆んな、静かにしてくれ。今ここで騒いでも始まらない。まだハッキリはしていないのだ。この次停まったらソ連兵に聞いてみるから」
私は見かねて声をかけたのである。しかし列車は不必要な駅には停まらない。何時間走ったか、やっと停車した。用便のための下車が初めて許された。だが貨車から三メートルも離れることは出来ない。やむなく皆貨車の下にもぐって久々に人間らしく用を足すのである。気温は氷点下二十度近い。ぐずぐずしていると局所の凍傷も免れないし、何時走り出すか分からない。真に危険なダブルシーである。私は素早く用を足して列車の進行方位を確かめるため、通訳の乗っている貨車を訪ねたのである。

 乗車してから一度も顔を見ることの出来なかった通訳を捜すのに何車両も歩き回り、ようやく彼に会えたのである。牡丹江を発ってから四日だが、一ヶ月も会っていない程の懐かしさである。そして彼の口から、今はどうにもならない運命にあることを知ったのである。

我々と共に騙されていたソ連兵

 私はある程度覚悟はしていたものの、やはりショックであった。貨車に乗る私を待ちきれないように兵たちは詰め寄り
「南ですか?北ですか?」
「ダモイじゃないのか?シベリアに連行されるのか?」
「早く教えてくれ」
と躍起になって問いかかる。しかも興奮のあまり殺気立っているようにさえ感じられる。私はつとめて冷静を装い、中央にあるランプの下に立ったのである。静粛そのものの一瞬の後、敢えておもむろに私は話し出した
「皆んな、心を落ち着けて聞いてほしい。通訳の話だとソ連将校の言葉から判断して、この列車はハバロスクに向かっていることは確実である。我々はシベリアに連れて行かれるらしい」
話の途中で誰かが叫んだ
「ソ連将校の言葉とはどういうことか」
「実はこうだ。通訳がソ連将校に行き先を聞こうとしたその先に、おまえ達は日本に帰るというのに、何故北に向かって行くのか。ハバロスクはいい所だから、そこに行くのか?と逆に聞かれ、どちらが連れて行かれる身か分からないようなバカバカしい話だ。しかし、このことはその将校の態度から真面目な問であり、決してひやかし的なものでないことは間違いないとのことである」
車中段々騒然として、これ以上話すことは出来なくなった。
「ううむ、我々はだまされていたのか」
「こうなるんだったら満州内で逃げればよかった」
「なあに、これからでも何とかなる」
再び車中は混乱し、制止不可能の状態となった。列車は既に発車し、北へ北へと進行しているのである。
「ダモイヤボーニエ」
遂にだまされたのである。しかも我々関東軍将兵だけでなく、ソ連将兵も又同様に偽られていたのである。そして一度日本人をソ連領内に輸送警戒の任に当たった将兵は、この秘密保持のためか、二度と同一任務で満領内に派遣しなかったというこの国の徹底主義には只驚くのみであった。

無茶な逃亡計画

 ダモイを信じ切っていた兵達のショックは大きく、別れ別れになった家族の安否、これから先の己が身の不安、だまされた悔しさ等複雑な気持ちは遂に爆発するのである。
「このまま、まざまざとシベリアに連れて行かれ、重労働をさせられてたまるものか!」
「列車はまだ国境線に沿って走っているはずだ。今からでも満領内に逃亡できる」
「そうだ、ウスリー江はもう凍ったろう。幸い糧まつはまだ大分ある。警戒兵の目さえうまくくぐれば大丈夫だ」
等々、兵達はダモイなることを簡単に信じてしまっただけに、逃亡の計画も至極単純な考えのもとに立てているようである。しかし既に逃亡を企てて射殺された者もある。一歩出れば四方敵である。従って人家を離れて山から山を歩かねばなるまい。そしてそこには飢えたオオカミが群れをなして待っているであろうし、寒さも又これ以上の敵である。
 私は黙ってこの話を聞いていて、思わずぞっとしたのである。ちょうどその時、思案余ってか二、三人相談に来たので、まず成功の望めないことと、抑留されても何時かは帰る日も来るであろうことを説明しようと兵達を納得させたのである。

時計欲しさに群がるソ連人

 列車は遂にハバロスクに着いた。もう総てを諦めたか、誰一人騒ぐ者もいない。何時間停車するのかは不明だが、ともかく大休止らしく下車が許された。例によって貨車の下にもぐって用を足す我々より先に入ソした同胞の道しるべ?であろうか、こちこちに凍ったシロモノが線路の枕木を半ば埋めている。物々交換で味をしめたのか、ソ連の女子供が黒山のように列車を取り巻いているが、今は色気を忘れたのか或いは慣れてきたのか案外平気で用を足している。そしてこれらの人々は手に手に黒パンのかけらと葉タバコを持って主として時計と万年筆を欲しがっている。またライター、ケース入りの安全カミソリ等も人気がある。私はこれらの品は最悪の場合の交換物資にするよう常に注意を促していたが、中にはニコチン欲しさと空腹のあまり手放す者もあった。五、六時間も停車したのであろうか、ハバロスクを後に列車は大きな駅で時折大休止をしながら、かつてシベリア出兵で有名なチタを過ぎ、また世界最深のバイカル湖を右に眺めつつ、或いは森林伐採のため相当な日本兵が送り込まれるイルクーツクを後に、また塩田のような見渡す限りの不毛地帯(強度のアルカリ性のため、雪がなくても地肌が白く草も生えない)に目をみはりつつ、飢えと寒さと不安に怯える我々を乗せてシベリア大平原を西へ西へと進むのであった。

 十一月九日、牡丹江を発ってから乗り続けること実に十七日、文字通り一日千里昼夜を分かたずばく進を続けた列車は十一月二十五日、遂に我々の目的地であったロフソフカに到着したのである。

地図にもなき収容所

 我々の収容されたロフソフカの街は地図にも明記されていないような小さなもので、従ってその位置を明確に知ることはできないが、聞くところによると独ソ戦たけなわなる時、敵の空襲を避けるため、わざわざこの僻地(大体においてウラル山脈の東方数百キロメートル、オビ川の二大支流の一つイルチイシ川の一支流に沿いシベリア本線から相当離れた所であることはおよそ確実である)に疎開したタンクを造るための工場地帯で、我々が到着した時は既にトラクターの生産に切り替えられていたのである。記録的な列車の旅を終えた我々はトラックに分乗し、山一つ見えない広野を走ること七、八時間、既に二ヶ大隊(二千人)の同胞のいるこの収容所に入所したのである。三番目の入所者である我々を迎えたソ連将兵の係は、例によるものか人員点呼、所持品検査、そして危険物やめぼしい物は没収する。
 ソ連の将兵は特に数字に弱いらしく、千人の数を調べるのに一時間以上かかる。寒さに弱い我々は凍傷を防ぐために足踏みを止めることも出来ないのである。そして寒さ一入身にしみる夕刻、この収容所の先輩格である同胞が一日の作業を終えて戻る頃、一切の調べを終えて各々の施設に落ち着いたのである。

粗末な施設と、全く足りない食糧

 長方形の収容所の周囲は、高さ四メートルばかりの厚い板塀で囲まれ、その上に有刺鉄線が張り巡らされ、更に板塀に沿った内側に幅五メートルくらいの無人地帯を設け、これに立ち入る者はたちどころに望楼から自動小銃の掃射を受けるようになっており、また三メートル四方くらいのコンクリート製のブタ箱もあり、彼らに言わせると完全なる施設だそうだが、我々は当然とは言いながらイヤな感じである。
 二千人でいっぱいの所にまた千人増えたのだから、建物寝台等に於ける定員無視は甚だしく、車中同様の混雑で木製三段寝台(定員六人)へ九人乗るのだから、時折のめって潰れ、中、下段にいる者は度々怪我をする。また最上段にいる者は二メートルの高さから落ちるのでうっかり寝返りも打てない。また室内の気温は常に氷点下であるのに着て寝る物は毛布一枚と携行した防寒外套一枚だけ、おまけに板の上にごろ寝である。風邪をひく位ならまだしも、寝ていて凍傷になるおそれもある。
 収容されてから六日目の十二月一日、後続部隊であった我々にも本格的作業開始が命ぜられ、当初は凡その人数でそれぞれの現場に出かけたのである。今は満州から携帯した食糧も食い尽くし、彼らから受ける物以外何一つ口にする物はない。如何なる理由か、飯盒の蓋に八分目くらいしかない黒パン原料のパン粉でつくったノリのような粥が朝食として朝の四時半から五時頃、日本人が担当している炊事場から運ばれる。各寝台からは獲物を狙う飢えたオオカミのように食事当番の分配状況を見つめている。だが一度口にすれば一分もかからず飲み込んでしまうのである。
「ああ、これで日に二回の楽しみの中の一つが終わった。後は辛い作業整列の六時を待つのか」
と誰しも心の内で思いつつ、またゴロリと横になるのである。作業現場へは八時までに到着すれば良いのであるが、前述の如く数字に弱い彼らは三千人近い我々の配分は容易でないため一時間も二時間も前に整列させ、凍傷予防のための足踏みをさせ、いたずらに体力を消耗させるのである。また作業が有る無しにかかわらず、昼食は抜きである。そして夕食時に昼の分として黒パン三百グラム(実際には二百グラムくらい)それに夕食の粥が朝と同量支給されるだけで、四六時中腹が減り通しである。従って満腹感を味わいたい者は、雪を溶かした水をたらふく飲むより他はないのである。

待ちに待ったお正月

 先に収容された二千人の兵達は作業を始めてから既に二ヶ月或いは三ヶ月経っている。我々ももう一ヶ月になる。心身特に肉体の衰弱は日毎にひどくなり、精根尽きて死ぬ者も段々多くなってきた。そして我々が食の次に欲するものは休養である。日曜といえど臨時作業がある。期待していたクリスマスも何ということはない。ソ連が国を挙げて祝うのは革命記念日だけだという。しかし、それはもうとうに過ぎている。あと期待できるのは年の初めだけである。一九四六年一月一日、即ち昭和二十一年の元旦である。遂にその日は来た。
「内地はお正月だ。今日は元日だ」
朝の食事分配で目を覚ました兵達が口々に叫ぶ。
「内地も食糧事情は悪いだろうが、餅の少しぐらいつけたろう」
「そうだ。もう一度お雑煮を食うまでは石にかじりついても生きるんだ」
日本人は特にお正月というと御馳走を連想する。況や異国の地で飢える身に於いてをや。
 だが、遂に我々の期待は裏切られ、今はかつての雑煮よりもうまく食べられる少量の粥をすすり、心は正月の母国へ、身は氷点下三十度の作業現場に向かうべく整列するのだった。

 本格的作業に入った我々は、必然的にソ連の一般労働者農民等と毎日接するようになり、今後これらの人々の赤裸々な姿を記載するようになり、従ってこの手記を読んで下さる方の中にも甚だ気にくわないと思うような事柄が掲載されるかも知れないし、また日本人の常識では到底信じられないような言動も記述しなければならないが、このことは私がこの目で見、この耳で聞き、この身で体験した事実であって、決して誇張もなければ虚偽でもないことを予めお断りしておく次第である。

抑留者に課せられた作業

 ロフソフカ収容所に収容された我々日本人の作業は大別してトラクター工場内の作業(これは主として機械関係などの技術者)同付属工場である鋳物工場の作業、建築関係の作業、それに季節的には農場作業、砂防工事作業がある。従事する人数は各現場の責任者から収容所長に連絡があり、日本側の本部を通じ、各作業中隊に伝達され、イロハ名によって称呼される各組に就寝前までに翌日の作業命令が下達されるのである。特別に技術を持たない私はラ組の長として主に建築作業に従事し、また収容所内に於いては作業中隊の長をも兼ねていた。

徹底しているノルマ

 働かざる者食うべからずの共産主義の原則に基づいてか徹底したノルマがある。如何なる作業でもその時の状況によって、そのノルマは数字的に明瞭に示されており、我々日本人には気候風土の不慣れと食糧事情によるソ連の配慮か、彼らより二十パーセント低い線で総てノルマが課せられたのである。而して賃金の支給を受けない我々は八時間の実働時間内に百パーセントならぬ八十パーセントのノルマを遂行しなければ一切れの黒パンを更に減ぜられ、塩気もない少量の粥をすするだけとなるのである。
 一方ソ連の労働者はこの時間内にそれぞれ百パーセントの作業を完遂し、それ相当な賃金を受け主食である黒パンは所属の職場から毎日帰宅時配給され、むき出しのままの三キロパンを小脇に、ドーマ(住宅)に急ぐのである。職場に出ない者は主食の配給を減ぜられ、または無配となり生活が困難となるため、ソ連の夫婦はその殆どが共稼ぎで、私が聞いた範囲では子供の多くある(三人以上)婦人には特例があり、一般労働者並の支給を受けるようになっているとのことである。

簡素な衣食住

 前述の如くソ連の成人者は学生(主に上流階級の子と国家が認めたる者のようである)を除けば、好むと好まざるとに関わらずそれぞれの作業に従事するため、老若男女共通色であるナッパ服(労働服)で、冬季は一見男女の別も判断しがたい程で、夏季には色とりどりのスカートをはいた女性も見受けられる。
 また食については主食である黒パン、それに馬鈴薯、玉ねぎ等を入れヘット、ラードなどを用いたスープである。
 家屋は木造、レンガ、モルタル、それにソ連独特の丸木或いは満州のような土、石等種々雑多で、木製の寝台に至るまで国家の所有である。新設のためか周囲に樹木もなく非常に殺風景で、室内も生活必需品があるだけで至極簡素なもので、職場転換などで引っ越しの場合は実に軽便である。
 そして彼らには欲がないのか虚栄心を持たないのか、真に必要なる物以外はさほど欲しないようで、娯楽設備もない彼らは土曜日の晩ウォッカを飲んでダンスに興ずるのが無上の楽しみのようである。従って貞操観念は薄く、昼の休憩時等には我々を引率警戒のソ連兵と現場の女子労働者の間に目を覆うような場面を時折見せつけられ、また十二、三の子供までがそのゼスチャーをして我々をからかうのである。しかし疲労困憊その極みに達している我々には、かかる行為は全然関心がなく、ただ思うことは食うことだけで、今は内地へ帰りたいと思う心の余裕すら持たないのであった。

 春秋の季節をほとんど楽しむことの出来ない程気候の激しいシベリアは、九月下旬に降雪を見、十一月には氷点下十五、六度となり、十二月から二月下旬までの寒さは体験した者でなければ想像もつかぬ程のもので、氷点下三十度から四十度の日が続き、しかもこれに風速一メートルにつきマイナス一度の体感温度が加わるのである。作業のため収容所の門を出る朝の7時に気温氷点下三十度を超していれば屋外作業は中止ということになっており、毎朝この数字を期待しているのであるが、大抵の場合この時間には氷点下二十七、八度と寒暖計は皮肉なところを示し、現場に着く頃から気温は下がり、雪を交えた風は容赦なく吹きまくるのである。そして体感温度氷点下四十度から五十度の屋外で、暖もなく食もなく、与えられたノルマに取り組むのである。

地獄の声、作業整列

「オイ、今朝は格別寒いぞ。誰か門まで行って寒暖計を見て来いよ」
氷点下三十度になれば作業は中止だ。所内の軽作業なら骨まで凍るような思いはしないし、またうまくいけば炊事の使役でジャガイモの生を五つや六つは、或いはたらふくかじれるかも知れない。哀れな願いではあるが、誰しも毎朝一度はこういう気持ちになるのである。しかし運命の神は皮肉である。来る朝も来る朝も
「作業整列!」
本部員が各舎を怒鳴って廻る。
「ああ、今日もだめか」
朝食をすすって横になっていた連中がボソボソと起き上がる。着たきりで汚れ放題、つぎ放題。薄暗いためか顔の表裏の区別すらつかない。どこから見てもおコモさんの集いであり行列である。南京虫に刺されたか、シラミに食われたか首の周りをボリボリかきながら表へ出て、まばらに光る星を仰いでため息をつくのである。

数字に弱い日直将校

「ちぇっ、また一時間の足踏みか」
全くやりきれたものではない。日直将校は毎日代わるが、頭の程度は少しも変わらない。十列横隊にしてガマンディール(指揮者)も列中に入れてワン、ツー、スリーならぬラース、ドバー、トリーと数えなければ全く答えが出てこない。聞けばかけ算はだめで三桁以上の足し算は苦手で、二桁足してはその答えに次の一桁を足すというやり方である。これでは一時間以上立たされるのも当然である。しかも日直将校は現役の上級中尉或いは大尉である。
「こうなるんだったらもう少し彼らに算数の勉強をしておいてもらえば良かった」
と誰かが言ったことがあったが、正にその通りである。
 しかし今更こんなことを言っても始まらない。我々は凍傷にならぬように足踏みをするより他はない。
「捕虜だもの」
どうも日本人は諦めがいいらしい。

実業学校の生徒

 約一時間くらいかかると納得がいくらしく、門を出る時はいつも七時頃である。毎朝のことながら五、六百メートル行くと実業学校(義務教育を終えた少年が二ヶ年間一ヶ所に合宿して、それぞれ与えられた職業を現場教習される所で、特別の才能のない限りここで生涯の職が定まるとのことである)の生徒が隊伍を組んで工場その他の現場に行く。そしてすれ違いざま、例によってセックスのゼスチャーをして我々をからかうのである。
「エーイ、ヤポンスキー、スマトリー」(オイ、日本人見ろよ)
と、彼ら独特の大げさな身振りでその格好は実に滑稽である。しかし食気以外は総てを忘れた我々は、誰一人顔をほころばす者もないのである。

 我々屋外作業員は寒さに耐えることが容易でないことと、もう一つにはその国民性もあってか当初はノルマが出るとこれを請取り式で作業終了次第収容所に帰してもらうことをそれぞれの現場監督と約束したのである。而して入ソ当時は体力もあり、全力をあげてやれば八時間の作業を一、二時間短縮し、早くラーゲル(収容所)に帰れたのである。しかしながら、小回り作業を十日もせぬ内にこのことは只ノルマを増加させ、ついには時間いっぱいの努力をしても完遂することは出来ないばかりか、逆にパーセントは低下し食糧を減ぜられ、徒に体力を消耗せしむる結果となることを知ったのである。要するにこの国では与えられたノルマと実働時間とを見て、要領よく働くより他はないのであることを覚ったのである。

職務に忠実なソ連人

 収容所の歩哨に引率されて現場に着くと、もう監督が待っていて
「セボデニヤスコリコ」(正確にはスコリコチョロベークで、今日は何人かということである)
「何十何人」
「ハラショー(宜しい)」
そして、ガマンディール(指揮者)である私のところへ来て、
「ドラースチェ(お早う)」
毎朝くり返す言葉であって、これまでは好感が持てるが、これからが大変である。ソ連人は職務に真面目であると言うがその通りである。
 だが我々が見た感じではノルマに支配された忠実である。パーセントの上がらぬ半病人のような日本人を使うこの監督のパーセントも又マイナスであろう。故に彼らは特に屋外作業の場合は仕事の鬼となるのである。歩哨から現場監督に引き渡された我々ラ組の連中は例によって建築の基礎掘りで、まず監督が土の凍度を調べ、一人当たりのノルマを出し、後は大体の見当で設計図を見ては一人ひとり掘る場所に配置してくれる。そして私は全部のノルマの責任を負わされるのである。

二十五パーセントの土工

「ダバイ!(作業開始!)」の声がかかる。
極度の栄養失調になっている我々は、ただ歩くのさえだるいのである。工具として渡される二メートルばかりの鉄棒(片方を尖らせ、片方を平たくしたツルハシの代用)を振るのが容易でない。
「ヨイショ」
一回振り下ろしても小さな凍土のかけらがポロリ。それもそのはずである。四十センチメートルも五十センチメートルもコチコチに凍っているのである。どう見ても与えられたノルマの半分も掘ることは出来ないであろう。
「ああ、今日も二十五パーセントか」
ため息と同時に小さな黒パンのかけらが目の前にちらつくのである。
「ダバイビストリー(早くやれ)」
作業の能率が上がらぬ為イライラしている監督は、棒立ちになっている者等を見るとやたらに怒鳴ったり突き飛ばしたりする。そして私のところに来て
「ネーハラショー、ドバーツビヤツチ!(駄目だ、二十五パーセントだ!)」とヒステリックになって食ってかかる。そしてわざわざ手袋を脱いで左右の食指と中指で井ゲタをつくり、無言で
「牢獄へぶち込むぞ!」
と脅かすのである。
しかし、いくら怒鳴られようと殴られようと、これ以上の力は出ないのである。収容所内だけでも毎日十人、十五人と死んで行くありさまである(私の記憶では一日二十六人が最高である)。他にもドイツの捕虜と一緒の病院があり相当入院しているがこれは不明である。正に間接的殺戮である。しかし、生きたい思いは誰しも同じである。故に今は決して無理はせず、どうせどうにも足りない食糧なんだからとパーセントにはあまりこだわらず、八時間の作業を終えた夕刻の五時、二十五パーセントから三十パーセントの成績をいただき、昼食と夕食とを一度に食べられるラーゲルに帰るのである。

※注
 ダバイというロシア語は非常に広範囲に利用される言葉であって、その時の状況によって如何様にも解釈されるのである。例えば、タバコを吸っている人に手を出してダバイと言えば、タバコをくれという意味になる。

落ちては凍る涙 (死にたい、そして楽になりたい)

 働かない者は食わせられないのがこの国の掟である。いくら御身大切であってもパーセントが上がらないことには一日分をいっぺんに食べてもてんで足りない食糧を更に減ぜられるので、結局は生命を全うすることさえ困難となるのである。またその組の長は責任を問われ、所内にある営倉に入れられるのである。

幾つあっても足りない体

 連日三十パーセント以下の作業成績を記録したラ組の長たる私は、遂にその責任を負わされたのである。一日の作業を終え、ラーゲルの門を入ったとたんに日直将校が
「ダバイガマンディール(指揮官こっちへ来い)」
と衛兵所内に連れ込まれ、
「ヨッポニマエスマトリー(この野郎、これを見ろ)」
と何枚かの現場からの通報用紙を目の前に突きつけられたのである。見れば月日とパーセントの数字が下手くその字で書いてある。その下の方に私の名前であろうロシア文字でイトーとある。
「ああ、また営倉か!この前は舎内禁煙のお定(必ず屋外で喫煙すること)を寒いからとはいえ、殆どの者がこれを無視してタバコ(代用品で松葉やひまわり草の枯れ茎でつくったもの)を喫い、その責任罰で一晩くらったが、今日は作業成績不良罪で二十四時間か!これじゃ幾つ体があっても足りやぁしない」
と心に思いつつ収容所長の少佐をにらむ。
「ダバイ」
例によって四本の指で井ゲタをつくり、営倉にぶち込めとあごをしゃくるのである。
 衛兵所の軍曹が私の顔を見てニヤニヤしながら所持品の検査をする。そしてバンド代わりにしめているボロボロの紐まで外して
「ダバイ」
と衛兵所のすぐ裏にあるレンガ造りの小さな建物に放り込まれたのである。

生か死か?

 内部はコンクリートで塗りつぶされており、高い所に小さな窓が一つある。広さは四畳半くらいであろうか、片隅に寝台代わりの薄板が一枚横になっている。その側に生理の遺物がコチコチに積もっている。私はこれで二度目である。
「生か死か」
「何が為に生きんや」
等々、壁の落書きは前と同じである。もう外も真っ暗であろう。時々通るソ連兵の靴音が聞こえてくる。
「生か死か」
死は簡単である。今の私には死の苦しみという言葉は通用しないのである。寝ること即ち死である。空腹、疲労、そして衰弱。営倉内で横になれば直ちに睡魔のとりことなるのである。そして知らぬ間に凍死できるのである。
「ああ死にたい。そして楽になりたい」
現に何人かがこの気持ちの実現者として真っ裸にむかれ、棒切れのようにしかばね室に担ぎ込まれたのである。普段は内地へ帰りたいと思う心の余裕すらない私も、こんな場合不思議と父母の面影が脳裏をかすめるのである。
「そうだ!生きるんだ。故郷の土を踏むまでは石にかじりついても生き抜くのだ」
と心を決したとたん、栄養失調でムクミさえ帯びた左右の脚が、もう交互に動き出している。狭い室内を壁にそって、しかも夢遊病者のように。そして、止めどもなき涙は、あふれては落ち落ちては凍るのである。何時間過ぎたか何十回廻ったか。ややもすればくじけようとする心身に鞭打ちつつ、夜の明けるまで作業整列の時間まで、廻り続けるのである。

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