シベリア抑留記。戦争体験の中でも特に過酷だったと言われるシベリアでの抑留生活をありのままに告白した貴重な体験記。

あとがき

筆者の言葉

伊藤常一

 本手記は筆者がソ連と戦闘を開始した昭和二十年八月八日より、昭和二十二年十二月二日ナオトカ港出航、十二月五日舞鶴港上陸、復員に至る間の諸々の事項を、昭和三十五年十一月十三日を第一面として、某ローカル新聞(毎週日曜日発行)に掲載した記事ですが、記事の中でお断りしてありますように、ソ連の実情をそのまま発表することを好ましく思わない読者か、或いは政治的左翼分子の人からか良く分からないが、筆者に対する嫌がらせや遂には脅迫的な文書が舞い込むようになり、家族の者の意見もあり、遂に一時ペンを置くこととなり、昭和三十六年六月二十五日の発行を最後に中断のやむなきに至りましたことを愛読者の皆さまに心からお詫び申し上げる次第です。

以上



解説

 本書は太平洋戦争に第百二十六師団司令部、人事係陸軍准尉として従軍していた伊藤常一氏が、帰国後昭和二十年八月の終戦から昭和二十一年四月までのソ連抑留体験を綴ったものであり、伊藤氏自身語っているように「この目で見、この耳で聞き、この身で体験した誇張無き事実」である。
 この手記は、昭和三十五年十一月から約半年間にわたり、週一回のペースで著者在住地区のローカル新聞に連載された。この度、この貴重な資料をより読みやすい形で後世に伝えるべく、本人の了解を得て小冊子の形にまとめることになった。

 手記は昭和二十一年四月の時点で終わっているが、伊藤氏が故国の土を踏んだのは昭和二十二年十二月である。従って帰国前二十ヶ月間の抑留生活に関しては語られていない。
 伊藤氏は当初、終戦から帰国までの二年四ヶ月間にわたるソ連抑留生活の全記録を書き下ろすはずであった。そして、書き進めるにつれて読者からは激励の手紙が届くようになり、部数を増やして欲しいとの要望もあいつぎ、発行部数は毎月増加の一途をたどった。
 しかし、連載を重ねて行くうちに別の反応を示す人達も現れてきたのである。いわゆる左翼の人達である。共産国である、そしてまた自らの信奉するソ連という国家の信じがたい実態が次々と明かされることに彼らは憤り、再三にわたり嫌がらせの投稿を当ローカル新聞社及び筆者本人に送りつけてきた。そして、もはやこれ以上の執筆がさまざまな面で危険を伴うと感じた伊藤氏は、やむなくその筆を置いたのであった。手記が完結を待たずして中断しているのは、かかる理由によるものである。
 現在(平成二十一年)、完結までの手記を待ち望む多数の声があるものの、伊藤氏自身高齢(九十一歳)のため執筆が困難になってしまっている。しかし未完結とはいえ、本書に伝えられる内容だけでも、我々は戦争というものの悲惨さを充分うかがい知ることができ、このような極限状態で生き抜いた(或いは息絶えた)先人達の生き様は、我々にさまざまな教訓を与え、良き社会をつくらんとする心を奮い立たせるのである。
 この小冊子が、人類が戦争という過ちを二度と犯さないための一助とならんことを願い、また現代人が平和ボケの中で忘れ果ててしまった心を目覚めさせてくれることを願い、解説の言葉とさせて頂きたい。

    何事もなく
      生くる喜びを感謝しつ
        治に居て乱を忘れざらまし    … 合掌 …
                

宮崎護
メール ⇒ jupiter.mmx7★cocoa.plala.or.jp
       (★を@に置き換えてください。)



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