シベリア抑留記。戦争体験の中でも特に過酷だったと言われるシベリアでの抑留生活をありのままに告白した貴重な体験記。

シベリア抑留記-Ⅱ

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 当初、営倉はたいていの場合、二十四時間入れられたのであるが、我々の大隊より先にこの収容所に入所した連中が未だ季候の良い頃、営倉に入れられると、ソ連の将校に対し捨て鉢的な気持から
「スバーチハラショー(寝られるから結構だ)」
と連発したために、今は夜間だけの入倉で昼間は作業に駆り立てるのである。そして作業を終えて帰ると、また入れるのである。

むさぼりすする朝の粥

 一晩中歩き通しで狭い営倉内を何十回或いは何百回廻ったか分からないが、夜が明け始めた頃、作業整列がかかったのであろう。外は急に騒がしくなり、入口の方に人の気配がしてガチャリと錠を外す音がする。昨日の軍曹が現れて
「ダバイ(出ろ)」
とアゴならぬ頭でしゃくるのである。死の恐怖から救われたような気持になり、フラフラと外へ出た私の頭の中は、もう食うこと以外の何ものもない。ヱ兵所内に連れて行かれ、バンドならぬボロ紐を受け取り
「ダバイ(食え)」
と言って出された少量の食事をむさぼり食う。否、むさぼりすするのである。そして門前でラ組の作業員と一緒になり、また新たに今日一日の責任を負って現場に向かうのである。

多すぎるノルマ

 ラ組全部の責任を背負わされて入倉したことを知って気の毒に思う人もあってか、その誠意の程が何日かはパーセントの上に現れるのである。しかしいくら自覚はしていても体力の伴わない我々に長く続こうはずはなく、パーセントは再び低下の一途をたどり食は更に減らされ、遂に精根尽きて死ぬ者は日を追って増加するがノルマは一向に変わらないのである。
「ああ、今日も穴掘りか」
雪を交えた北風は容赦なく吹きまくる。
「我々のパーセントの上がらないのはノルマが多すぎるからだ」
「うん、そうかも知れない。他の組はもっとパーセントが上がっているぞ」
確かにそういうことも言えるであろう。監督によってかなりの相違があるようにも思えるからである。
「オイ、ガマンディール(私のこと)、監督と強硬に交渉してノルマを負けさせなければ駄目だぞ」
異口同音、私に迫るのである。ソ連側の命によってやむを得ず引き受けた長である。つまらぬ責任だけを負わされるのみで何の権限もない指揮者である。
 日本人とソ連人の間に挟まって双方から無理難題を要求されるだけで、何の恩典もないガマンディールである。ただ旧軍隊の準士官という階級にあったが故に持たされただけである。
 しかもその階級は既に全面的に撤廃され、何の役にも立たぬばかりかこんな場合にのみ利用される因果な立場となったのである。

悲壮なる決意

「オイ、みんな聞いてくれ。私も監督の出すノルマを鵜呑みにしているのではない。絶対命令で出されるんだから、これ以上の強硬交渉にはそれ相当な覚悟が必要だがそれでいいか?」
と私は遂にたまりかねて、半ば捨て鉢的な気持で全部に諮ったのである。
「よろしい。ノルマを減らさなければストをやるんだ」
「どうせ我々は間接的に殺されるようなものだから、死ぬなら早い方がいい」
等々、その決意の程は充分うかがえる。
「ヨシ、みんながその気持なら、私もその意気で当たってみる」
私は悲壮な覚悟のもとに交渉を始めたのである。

 現場監督から出された作業命令(ノルマ)は絶対的なものであり、いくら口頭交渉をしても聞き入れてもらえなかったのが今までの例である。そして彼らは最後の切り札として必ずお前たちは捕虜じゃないかと言い放つのである。
 故に今如何なる強硬交渉をしようとノルマを減ずることは出来ないばかりか、我と我が身を窮地に追い込む結果となることは灯を見るより明らかである。しかし全員がある程度の決意を示した以上、長たる私も立ち上がらざるを得ない破目となったのである。

ノルマ交渉は決裂

 責任者として悲壮なる決心をした私は、もとより入倉は覚悟の上だ。営倉ですむか、それともモスクワ行きか。そして、ああ・・・・否、こんなことではモスクワには連れて行かれないであろう。やはり生きたいが為か、悲観感は無意識のうちに否定されるのである。只ならぬ空気を感じてか、ズカズカと私の側に来た監督は
「パチエムニエーラボーター(何故作業しないのか)」
ともう高姿勢で怒鳴りつけたのである。私は努めて冷静を装い
「ノルマオーチエンムノーゴニエーハラショー、イッショーマーロハラショー(非常にノルマが多すぎるから駄目だ。もう少し少なければよい)」
と単語の綴り合わせで語尾の変化も何もあったものではなく、彼らに言わせればおかしなものだろうが、日常会話となっている今は充分その意味は通じるのである。
「ニエート、マーロダバイビストリー、ニエーハローシイガマンディール(いいえ、少い早くやれ、お前はよくない指揮官だ)」
私はいささかムッとして
「ホイ、エビオマエ、ドラーク、スマトリーエシ、ヤポンスキーラボーチニークフショーニエーラボータ(この馬鹿野郎、見てみろ、日本の労働者はみんな作業しないぞ)」
と言ったのである。監督にしてみれば、作業をしないぞということ自体が自分のノルマに関わる重大事である。その上捕虜の身の私から馬鹿野郎呼ばわりされたのだから怒るのも無理はない。
「ヨッポニマエガマンディール」
とカンカンになり私を突き飛ばした。栄養失調で一寸つまずいても転ぶ体である。雪の上にまともに倒れた。作業員の目は全部私に向けられている。歯を食いしばってその一人ひとりを見据えるように見回すうち、遂に私の口は割れたのである
「やるかストを、決死のストを!」と。

決死のストライキ

 ストのない国でストをやる。況や捕虜である我々が・・・果たしてどんなことになるだろうか?まさか殺しはすまい?瞬間ためらう心に鞭打つように
「さあストだ、ストライキだ!」
「覚悟はいいか、決死のストだぞ!」
と口々に叫び、普段黄色くむくんでいる一同の顔が青白く引き締まり、それぞれの場所へ腰を下ろした。泡を食ったのは監督である。
「ダバイダバイ、ハタラクダバイ」
片言の日本語を交えての狼狽ぶりである。そして一人ひとりを蹴飛ばして歩くが馬耳東風動こうともしない。致し方なしと思ったか、彼は我々を引率警戒のためのソ連兵の応援を求め、
「ダバイダバイ」
と片っ端から蹴ったり殴ったり銃床でこづいたり、或いは殺すぞと銃口を突きつけて脅すのである。いくら捕虜でも彼ら一存でむやみに殺すことは出来ないと見えて、肩すかしにパンパンと実弾を発射する。すでに覚悟の決まっている作業員は
「ニエーニエー、ズゼーシダバイ(駄目駄目、ここを撃て)」
とその銃口を取って胸を張り、日本男子最後の意気を見よとばかりに心臓部にあてがうのである。

 総てのものが国有であり、国営であるこの国では町工場のような小さなものでも周囲に柵があり、その入口の上には必ずスターリンの大きな肖像画が掲げてあるのと同様に、剣つき鉄砲の歩哨がその周辺を警備しているのである。そして僅かな事でも犯す者があれば、容赦なく発砲し威嚇する。従って命中する場合もあるし、流れ弾に当たって何ら関係のない人が怪我をすることもある。しかし職責遂行上の故か、別に責任は問われないようである。また旧日本軍隊のように員数に対する厳しいところがないのか、面白半分に発砲するような場合がしばしばあり、真に物騒なところでもある。
 我々のストに対するソ連兵の介入は現場監督の要請?に基づいたもので、職務外の行為であるとも言えるが、興奮した彼らはしゃにむに就労させようと威嚇するのである。

駆けつける収容所長

 実弾を発射しておどかせば作業を開始するのではないかと思っていた彼らも、その筒先をとって胸に当て、
「さあ撃て」と居直られてはどうしようもなく、やり場のない銃口を胸から外して首筋すれすれに発射する。文字通り耳をつんざく音で生きた心地はしない。そして後ろの凍土に跳ね返った弾は蝶弾となって何れへか吹っ飛んで行くのである。
 いよいよ以て手に負えないと見たのか、監督は収容所に連絡すると共に、再び殴る蹴るの暴行を加え、私を近くの建築現場の一室(未完成)に監禁した。黙して語らず、剣付き鉄砲とにらみ合うことしばし。馬車の音がしてひげ面の収容所長が日本人の通訳を連れて駆け込んできた。二言三言早口に言ったが私には良く分からない通訳を通じて
「何故作業をしないのか?どうして作業命令に従わないのか?」
と聞く。私は一部始終を説明し、今の日本人の体力から見てノルマの軽減を考慮して欲しいと要求したのであるが、一向に聞いてはくれず、逆に
「お前が作業放棄の命令を出したのだろう」
と詰め寄る。
「いや違う。全員の意見だ」
「そうではない。お前の組は何時もパーセントが悪い。お前はガマンディールの資格はない。悪い奴だ」
と居丈高にまくし立てる。
「私は好き好んでやっているのではない。ソ連側の命令で仕方なくやっているんだ。悪かったら辞めさせてくれ。望むところだ!」
と反発した。カンカンになった所長は、私の胸ぐらをつかんで前後に揺さぶり
「ダバイラボータ(作業をしろ)」
と言って外につき出した。そして不安げに私の方を見ている作業員を指さして
「早く作業をさせろ」
と息巻くのである。

大命による終戦捕虜の現実

 もうこれより先は成り行き任せと腹を定めた私は、一同を見回して
「処置なしだ。私はこれから営倉かも知れないが、みんなどうする?仕方がないから作業を始めるか、それともこのままストを続けるか」
と聞いてみた。
「ガマンディールだけに責任を負わせるのも気の毒だ」
「しかしこのまま座っていては凍傷になる。しょうがないからやるか」
決死でストに入ったものの、今となればやはり凍傷にはかかりたくないのであろう。
「ふっ、これが大命による終戦捕虜の現実か」
口々に何かつぶやきながら一人立ち二人立ちして全部がそれぞれの場所で作業を始めたのである。所長と一緒にいた通訳が私の側に来て
「帰ったら営倉だと言ってるよ。それから今までサボった分だけ、作業時間を伸ばすそうだ」
と伝えた。所長は我々の作業開始を見てホッとしたのか、私に向かい
「ヨッポニマーエ!(この野郎!)」
と吐き捨てるように言って立ち去るのである。見送る私の気持ちは複雑である。ノルマは負けさせることは出来なかった。しかし私としては最悪の結果は免れた。ともかく営倉でことは済む。そして私の立場も、これで少しは理解してもらえるだろう。そうだ、これでいいのだ。と思う反面、あまりにも情けない今の境遇に無念さが込み上げ、固く握った両の拳はふるえている。
「ダバイガマンディール」
大きな声と共に背中をどすんと突かれて我にかえり、振り向くと未だ興奮から覚めやらぬ監督が
「セボデニヤスエスチチャスラボート(今日は六時まで作業だ)」と吐き出すように言い、帰れば営倉だぞと御親切に付け加えてくれるのである。

 ノルマを減らすことによってパーセントを上げ、食糧の低下を防ぎ、生命を全うせんが為に命がけのストを決行したにもかかわらず、只むごい仕打ちを受けただけで、具体的に何ら成果の無かったことが、結局はパーセントを低下させる原因となった。
 極度に緊張した気持が再び失望のどん底に叩き落とされたような思いの作業員は、その振り上げるドームも心なし重く冷たく感じられる。今はパーセントのことなど思う者もなく、只生きるという本能によって凍傷予防のための動作が繰り返されているに過ぎないようである。そして苛立った監督の
「ダバイビストリー(早くやれ)」
と言うこと以外声もなく、全員只黙々とこの動作を続けるのである。

三度目の入倉

 ストのための感情と更に一時間帰営時間が遅くなったことで当たり散らす歩哨に引率され、暗くなってから収容所の門をくぐった。既に所長から命令があったのであろう、衛兵所の前で日直将校が
「ダバイー」
と私を呼び、四本の指で井けたを作り
「ズナーエシ(営倉に入れられることを知っているかという意味)」
と聞く。
「イヤーズナーユ(私は知っている)」
と答えると
「ダバイ!」
と言って衛兵所内に私を連れて行き、例によって紐を取る。見れば机の上に五百グラム位の黒パンが一切れ置いてある。私は思わず
「ダイチェムニエーフレーブ(私にパンを下さい)」
と哀願したのであるが、返ってきた言葉は
「ニエート(駄目だ)」
衛兵勤務の誰かの夕食なのか、素っ気なく断られた。ストのない国でストをした、一種の犯罪を犯した者に対して当然であろう。結局朝の五時ごろ重湯のような粥を飯ごうの蓋に八分目位すすっただけであった。
 営倉に入れられてからも未だ机の上のパンが目にちらつき、くたくたと腰を下ろしてしまった。約二キロの道を走ってきたのと、少しの間ではあるが衛兵所で暖をとったためか、ついウトウトし始めた私は、本部員が叫ぶ点呼整列の声でハッと我にかえり、壁につかまるようにして立ち上がり、
「ああ、危うく死神に取り憑かれるとこだった」
と思いながら、コツコツと廻り始めたのである。

営倉内での想い出

「生きるんだ。どんな事になっても生き抜くのだ。私はあの時も死にきれないで今日まで生きてきたのだ。あの時も今も生きることについては変わりはないはずだ」
楽になりたい気持と生きたい気持、そしてこの二つの心の一つに言い聞かせるかの如く、過ぎしあの時のことが走馬燈のように甦ってくるのである。
 去年の八月十七日、ソ連軍の全面攻撃でもろくも支離滅裂となった師団は黄道河子の山中に退却すべく牡丹江河畔に集結したのである。そして師団主力の渡河略完了と同時に工兵隊の手で鉄橋を爆破し、私の原隊である第八十八部隊(旧第三国境守備隊)の第三大隊が師団主力の転進(退却)援護部隊として残されたのである。絶大な敵を目前に控え、浮き足立っている友軍に命令の徹底するはずはなく、既に大隊長の姿もなくやむなくF中尉が大隊の指揮をとり、かろうじて堤防に陣地占領した兵力は大隊砲二門、速射砲一門、重機関銃三銃、他は一般歩兵小隊で総勢僅か六十人余り。このため司令部付きである私は高級参謀と共に叱咤激励のため奔走していたのである。そしてこれで良しと気がついた時には主力は殆ど退却し、高級参謀の姿さえ消えていたのである。
 一方ソ連機は日本軍に対空火器のないことを知ると、頭上すれすれ位まで下がり地上掃射を反復する。また後方にある砲兵は川一つ隔てた第一線部隊と呼応して鉄の雨を降らせ、畠に密生していたコーリャンも今は一本なし倒れ、隠れ場のない友軍は皆堤防の死角(直射弾の効かぬ内側)にへばりつき胸から上を出して応戦したのである。

 師団主力はソ連空軍の猛爆撃と砲兵の集中射撃により甚大な損害を受けつつも牡丹江河畔から横道河子に通ずる国道沿いに転進を続け、一方河畔に残った第三大隊はソ連軍の前進を阻止すべく全力をあげて抵抗したのである。
 そして気がついた時には戦線を離れる者誰一人なく、今更後退することは結局はソ連機の好餌となり犬死にに等しい結果となるであろうことを知った私は、懐かしい原隊の友と最後まで戦うべく意を決したのである。

全滅した援護部隊

 大隊長代理のF中尉も速射砲小隊のG曹長も、また機関銃のC曹長も皆懐かしい原隊の戦友である。そしてこれら幹部の指揮の下にそれぞれの場所に陣地占領して応戦を続けている。
「オーイ、俺もここでみんなと一緒に最後まで戦うぞ」
私は声を張り上げ、弾雨下を突っ走っては全員を励まし続けたのである。
「オー、司令部はまだここにいるのか」
私の顔を知っている者は師団司令部現在地にありと錯覚したのか意を強くして奮戦した。しかし衆寡敵せず、戦うこと数時間。F中尉既に戦死し、頼みとする大隊砲も速射砲も敵機の爆撃に飛散し、残る重機も戦車砲の直撃弾に次々と破壊され、堤防に張り付いて応戦していた散兵も上半身を吹っ飛ばされ、朱に染まって転がり落ちるのである。而して日本軍の戦力極度に衰えたと見てとったソ連軍は破壊されたはずの鉄橋を十数台の戦車を先頭に進撃を開始し難なく渡河に成功したのである。だが世界に誇るソ連軍戦車も日本兵の肉薄攻撃を恐れてか堤防の数十メートル前方に停止散開し、日本軍占領の陣地代わりの堤防も瞬く間に変形する程撃ちまくり、そこここで応戦していた兵達も、その殆どが戦死し、最後の頼みとする肉薄攻撃班も敵戦車の集中射弾に倒れタコツボ(道路の両側に穴を掘り、携帯地雷を持って敵の戦車の来るまで隠れている個人用の穴)には二、三の頭しか見えず、文字通り壊滅寸前の状況となった。拳銃を持たない私は倒れている兵の銃を取って応戦。その間、彼我の距離刻一刻と狭まり、遂に手榴弾戦となり五発の内三発まで投げて堤防の下へ転がるように退がった。見れば残っている者といえば負傷してうめいている兵達だけで、音するものは敵重火器の発射音と頭上をかすめる弾道音、それに砲弾の炸裂音のみ。

発火した手榴弾

 もはやこれまでと決心をした私は、適当な場所をと四、五歩、歩く。たちまち斜め横から自動小銃の猛射を浴び、胸につっていた双眼鏡をかすめられ、思わず
「やられた!」
と、かたわらの草むらに倒れるようにもぐった。よく見れば眼鏡の片方のレンズをやられただけで、不思議にもかすり傷一つ負っていない。そしてそこにも二、三の友軍が朱に染まって事切れている。
「よし、ここにしよう」
図嚢から地図その他重要書類を取り出して焼き捨て、両腕にはめていた二個の時計と双眼鏡を石でつぶし、図嚢は軍刀で切り裂き、
「さあ、これで良し」
と、自決用として残した手榴弾をポケットから取り出して鉄帽を脱ぎ安全栓を除して発火し、右コメカミの所へあてがったのである。一秒二秒三秒、そして四秒目を数えるのと同時に
「俺は司令部要員である。しかも人事係である。この状況を上司に報告する義務がある」
ということが私の脳裏をかすめる瞬間、無意識のうちに手を離れた弾は、かたわらの窪みに投げ落とされ同時に炸裂した。だがこの為私の気持ちはかえって複雑になった
「この場に至って自決できない。俺は卑怯者だ。‥‥否!命のある限り犠牲部隊の最後の状況を報告するべきが今の俺に課せられた当然の務めである」
生か死か、最後の一発の手榴弾を取り出し遅疑逡巡する。と、その時、私の目前に現れたのは砲口から火を吹きつつ突入してきた敵重戦車であった。

※注
 この時の手榴弾は、発火してから七秒から七秒半で炸裂する。

 歩兵を伴った巨大な敵戦車群を目の当たりにした私の気持ちは、瞬間的に死から生に変わり本能的に草むらにうつ伏せとなり、戦死者のかたわらで身動きもせず息の根を殺して死を装ったのである。そして破竹の勢いで突撃してきたソ連軍は我々の死体?を飛び越え踏み越え進撃し、しかもこの状況は後続部隊によって次々と繰り返されたのである。
 遂に殺されもせず、また自ら命を絶つことも出来ず、結局は生きるが為のこの卑怯?な行為によって九死に一生を得、夜暗に乗じて死地を抜け出して敵中を突破し、翌日(二十年八月十八日)の正午頃司令部に追いつき第八十八部隊第三大隊の最後の状況を師団長に報告したのである。

再び死地を脱す

 半ば無意識のうちにコツコツと廻り続けていた私の肉体も、過去の想い出がここまで来て、ふと立ち止まり
「これから先どうなるのか分からぬ身の上だ。日本の勝利をまだ信じていたあの時自決した方が幸せだったかも知れぬ」
と思えば、再び廻り出す気力も薄らいでくる。
「座してはいけない。寝てはならぬ」
心の奥からムチ打つ声が聞こえてくる。そして、まぶたに浮かんでくるのは何年も見ぬ父母の面影と想い出多き故郷の山々。
「そうだ!生きられるだけ生きるのだ。必ず何時かは帰れるであろう。その日まで生き抜くのだ。そしてその日こそ、抑留者の状況、特に毎日五人、十人と異国の土と化してゆく犠牲者の悲しくも哀れな姿を、郷里に待つ人々に報告するのだ。これが現在生ある我々に課せられている幾多故人に対する務めであり友情である。敗戦とはなったが、私はあの時もこのような気持から自決できず、しかもそれが為に第三大隊最後の模様を上司に報告することが出来たではないか。そうだ、その通りだ!その意気、その責任感によってのみ生き抜くことが出来るのだ」
私の体は再び壁に沿って動き出したのである。

首を切られて氷上作業

 一夜明けて作業整列がかかる。例によって衛兵所で粥をすすり待つことしばし。何時もと違う編成の作業隊の中へ
「ダバイ」
と言って入れられる。見ればラ組の連中もいれば他の現場の人もいる。そしてO氏(旧准士官)がそのガマンディールらしく指揮をとっている。私は直感的に
「ああ良かった。遂に首だ。これでいくぶん苦労が少なくなる」
と思いながらどこで何の作業をするのかは聞こうともせず、作業隊の一員として乗せられるままにトラックに分乗したのである。
 車の後ろで乱舞する粉雪を後に、町はずれの大きな川のほとりに着き、下車を命ぜられた。車の上で堤防作業と聞いたが、一面に張りつめた氷のもとでどんな作業をするのだろうと互いに顔を見合わせている。数人の現場監督から配られた工具は重く冷たいドーム(片方を尖らせ、片方を平たく刃を付けた鉄棒)、それにジョレンを大きくしたような物だけ。ガマンディールがいただいた作業命令によると堤防下部の補強のため、氷を割り杭と杭の間にせき板を入れ、堤防とこのせき板の間(一メートル半位の幅)に石を詰める作業である。そしてここにもノルマがあるのか二、三の監督が相談して我々を一人ひとり同じ間隔で氷上に一列に配置する。二月下旬とはいえシベリアの春はまだ浅く、オビ川一支流でもあろうこの大きな川も一面に凍っていて、雪を交えた冷たい風は容赦なく吹き付けてくる。
「ダバイスカレーダバイビストリー」
毎日何十回と聞くイヤな感じの罵声にむち打たれながら、朝の五時ごろ少量の粥をすすっただけで、一滴の水もなく(川の水は飲めない)極寒氷点下二十数度の氷上で八時間ぶっ通しの作業を続けるのである。そして屋外作業のお定まりである三、四十パーセントの作業成績をいただき、心身共に凍り果てて唯一の憩いの場であるラーゲルに帰るのである・・・・。

 捕らわれの身となってから七ヶ月。その間人体の健康を保持するために必要なカロリーの徹底的不足、極寒下の作業によるエネルギーの極度の消耗により、特に屋外作業員の犠牲者は日を追って多くなった。収容所内に於いて健康体を維持している者は、特権的職場にある炊事勤務員と本部要員位のもので、他はその殆どが栄養失調で手足もむくみ、体全体にだるさを感じていた。特に塩分の不足がこれに拍車をかけ、ただ歩くのさえ物憂いほど衰弱し切っていたのである。折しも発疹チフスが発生し、シラミによる媒介と相まってたちまち所内に蔓延し始めた。

物差しで測ってパンを切る

 一日の作業を終えて帰った我々は、薄暗い電灯の灯る舎内に入り、唯一の憩いの場であるそれぞれの寝台(前にも述べたが木製の三段寝台で、その一段の広さは畳一枚位で、定員は二人。中、下段の者は座っていて上段の板に頭がつかえる)にそのままの服装でゴロリと横になり、常に枕べにある飯盒と手製のスプーンを取り出してなめたり或いは磨いては眺めたりしながら、昼食と夕食が一度にあがる飯あげ時間を今や遅しと待ちかまえているのである。
 また高熱に犯され許可を得て作業を休んで寝ていた者もムクリと起き上がり
「これを頼む」
と飯盒を差し出すのである。
 各現場からその殆どが引き揚げた夜の七時ごろ待ちわびた声がかかって当番があげてくる。そしてその分配に不公平がないかと各寝台の目は全部食事当番の手許に集中されている。
「オイ、遠見では駄目だ。ハカリを使え」
「そうだ、物差しを使え」
作業の組毎に何十と並んだ飯盒の蓋に空き缶で作った升で粥を量っては順々に入れる。他の当番は専用の物差しを当ててパンを切る。最後の小さなかけらはサイコロのようにその頭数だけ細切りにされる。終えて当番が
「分配完了。これでいいか?」
と異議を聞く。
「よし、概ね公平だ」
それっ、とばかり各寝台から足のだるさも忘れて己が食事を取りに行く。ガマンディールで四六時中つらい立場にある私は、何時もこの時のみんなの動作を見て
「作業の時もあのような元気でやってくれればなあ」
と、当然不可能なこととは知りながらも、心の内に思うのである。

満腹感は雪で味わう

 一人分の量は昼食の分として黒パン約三百グラム、夕食として塩気もない粥が飯盒の蓋に八分目位で一気に食べればものの三分とはかからないであろうものを大きなスプーンの先に少しずつすくってはなめるように味わっている。十分も十五分もかかって、中には点呼整列がかかるまで楽しんでいる者もある。満腹感を味わいたいのであろうか、他の容器に雪を取ってきてジャキジャキとつついて溶かし、たらふく飲んでいい気持ちになっている者もあるが、その実多数の人が下痢を起こしアメバー赤痢のような症状で苦しんでいるのである。
「ああ、これで点呼がなければなあ」
一日のうち一番楽しい夕食を終えた後、誰しもこう思うのである。そして冷たくまたたく星空を仰ぎながら或いは風雪にさらされながら、点呼のために足踏みを続けなければならないのである。

 収容所側は犠牲者の多発も一向に顧みることがないのか、高熱患者以外は強制的に作業に駆り立てた。アメバー赤痢と発疹チフスの蔓延しつつあることなど意に介せず、ノルマである作業人員の確保に躍起となり、人道的な面の一片すら見受けられないほどの酷使を続けたのである。
 一方所内にある診療施設なるものはほんの名ばかりで、ソ連側の監督下に旧日本の軍医が一人、終戦時携行した医療器具若干を持って診察するだけ。しかも患者に対する決定権もなく、ただソ連側軍医に対し意見具申をするに過ぎず、そしてそのせっかくの具申も手足、それに尻の皮膚をつまむだけの形式的診察によって否定されるのである。

起床ラッパは飯盒の音

 点呼を終えてそれぞれの寝台に戻り、口々に
「ああ、これで一日務まった。寝るとするか」
「早く夜が明けて朝飯を食いたいが、それから後が恐ろしいや」
夕食時に二食分いっぺんに食ったのだが、その口の渇かない内にもう明日の朝飯のことを思っているのである。そして疲れ果ててすぐ寝る者もあれば
「もう一度豆腐のみそ汁でカタイ飯を食ってみたいな」
などと隣の者と話し合っている連中もある。また高熱に犯されて訳の分からぬうわごとを言っている患者もあるかと思えば、ムックリ起き上がって眠れぬままに薄暗い電灯の下でシラミや南京虫を潰している者もある。私の隣のKさん(旧曹長)は、今日も作業に行ってきたものの、二、三日前から急に元気がなくなり顔までむくんできたようである。そして発熱でもしたらしく、荒い息遣いをしつつ深く寝入っている。オンボロの防寒外套の襟の周りのシラミを潰していた私も、何時しか眠くなりK君の汚れたそして熱っぽい足を抱くようにして眠りについた(畳一枚位の板の上に二人も三人も寝るために頭と足を交互にして寝る)。それから幾時間、起床ラッパならぬ飯盒の音に目を覚まし、ほとんどの者がムックと起き上がる。そしてノドをうならせながら配分を待つ。私より飯盒の音に敏感なはずの隣のK君が今朝に限って未だ悠然と眠っている。彼の分も取ってきて薄暗い枕べに置き
「オイ、K君、朝飯だよ。オイ、君の分も持ってきたよ・・・」
と声をかけた。だが反応がない。
「夕べ大分熱っぽかったから脳症(脳障害)でも起こしたのかな?」
と誰に言うともなくつぶやきながら、また
「オイ、K君、K曹長!」
と体を揺すったのである。瞬間、
「あっ・・・」
不吉な予感に思わず顔をのぞいた。
「ああ、とうとう彼も・・・・・・」
涙もなくしばしぼう然と立ちつくした。今日までの長い間、常に死の苦しみと闘ってきた彼は、狭い寝台に重なり合うようにして寝ている私に最後の決別を知らしめる苦痛も訴えも忘れはて、遂に永眠したのである。

死にゆく人の食事の争奪

 収容所側から言えば、捕虜の死は猫の死或いはそれ以下であろうし、また日本人同士としても、自分の命さえ明日をも知れない現在である。他人の死を悼み悲しむだけの余裕はない。むしろ死にゆく人に分配された食事の方が余程気がかりである。
「なあ、オイ、Kが死んだんだから、この食事は当然我々のものだ」
「うんにゃ、俺とは特別親しかったから半分位は俺の権利だ」
とんだところで権利を主張するやつもいる。今までの例から見れば、大体その寝台の者が分け合うことになる。一つ寝台の上、中、下段で六、七人であるからスプーンに一杯位ずつ食べられるのである。が、たまにはこうした奪い合いが起こり、一さじの粥の魅力に友の死を悼む心も薄らぎ、追いつめられた人間がその本来の姿を暴露するのであった。

 就寝、そして永眠。一日の総てを終えてその労を癒すための楽しかるべき寝台も、次第に恐怖のねぐらと化し、特に衰弱のひどい人や高熱患者などは就寝そのものに一抹の不安を感じて容易に寝付かれず、徒に睡眠時間を短縮し、遂には死を早める結果となり、毎朝のように何人かの永眠者が出る。
 しかし軍医が来て死亡を確認するわけでもなければ、収容所の日直将校が来て検視するでもない。だいたい本部に報告するだけで、まとっている衣服はフンドシに至るまで剥ぎ取り、文字通りの丸裸にして所内にあるしかばね室に運び込むのである。そして十体十五体と馬ゾリで、運べども運べども後を絶たない犠牲者が、全裸の冷凍人間となってしかばね室に積み重ねられてゆくのである。(剥ぎ取った衣類はいったん本部に納め、逐次程度の悪い物を着ている人のと交換する)

消し炭が唯一の薬

 アメバー赤痢、発疹チフス、今や所内に於いてこの伝染病に冒されていない者は極少数となり、大部分の者が発熱または血を交えた下痢患者となり、予防法もなければ薬もなく、十日も二十日もこの症状が続くのである。そして誰が言い出したか
「消し炭をつぶして飲むといいそうだ」
という声と共に、おぼれる者の心理から作業現場より消し炭を持ち帰り、飯盒の蓋の中ですり潰してスプーンでほおばる。
「とてもまずくて飲めやあしないや」
「当たり前よ!良薬口に苦しだ」
そんな冗談を飛ばしているのは比較的軽症患者であろう。口いっぱい粉末を入れてむせかえり、顔中真っ黒にして咳き込んでいる者もある。粉のままではどうにも飲み込めない私は、少量の水で溶き粥をすする時のようにずるずると流し込むのである。
「マズイ、まったくマズイ」
口に入れるものは何でもうまく食べられる現在だが、この漢方薬?だけはどうにもマズイ。そして効く人もあれば赤い下痢が黒い下痢に変わっただけで全然効かない人の方が多い。誰かがまた
「骨の黒焼きの方がいいそうだ」
と言い出すと、翌日はどこで手に入れたか羊か山羊の骨の黒焼きを持ち帰ってかじる者、ガリガリと潰して飲む者など、寝台の上の顔は正に黒一色である。

シラミ退治の入浴

 本部または日本側軍医が伝染病の予防措置につき申し入れをしたのか、或いは犠牲者の多発を見かねた収容所側の自発的指令によるものか、発疹チフスの予防としてシラミ駆除のための入浴が開始された。一日の作業を終えて全員が戻った兵舎毎に、夕食もそこそこに四キロも離れた町の公衆浴場に行く。
 目的がシラミ退治であるから舎内に一人の残留も許されない。フラフラになっている高熱患者も下痢患者も皆自分の身の回り品一切(被服は着たきりであるから毛布一枚と雑嚢だけである)を持って、夜の雪道を一時間も一時間半もテクルのである。そして途中で倒れる者を交替で背負いながら浴場に着く。既に一般ソ連人の入浴が終わったのであろう、あまり清潔でない脱衣場に薄暗い電灯が一つ黄色い光を放っている。
「ダバイベルボーチ」
監視のソ連兵に促された本部の通訳が入浴の要領を説明する
「衣類その他の身の回り品総てを一まとめにして紐で縛り滅菌室の釘にかけるんだ。蒸気消毒だから革製品はコチコチに縮んでしまうから靴は持ち込むなよ。それが済んだ者から入浴だ。湯が少ないから少しずつ使えと言っているぞ。いいな。分かったな。コンチェル(終わり)」
特権的立場にあるペルボーチク(通訳)は食も充分と見えて、なかなか張り切っている。私の側で誰かが
「ちぇ、ロシア語がしゃべれるくらいで威張っていやがる」
と舌打ちをし、寒さに震えながらシラミだらけの服を脱いでいる。

 我々日本人は入浴といえば風呂桶に焚口を設けてあるものを思い出し、公衆浴場と聞けば銭湯の大きな湯船を連想する。そして鼻歌交じりで肩までつかるものと思い込んでしまうが、今の場合はトルコ風呂ならぬ蒸し風呂で、蒸気によって温度を上げ、何本かの太いパイプに取り付けた蛇口から温水を出して体を流すのである。
 我々の入浴の第一目的がシラミ退治であるためか、衣類の完全滅菌ができるまで、この蒸し風呂の中に閉じ込められているのである。

半年に一度の入浴

 靴だけ残して衣類を滅菌室に掛け、浴場に入って驚いた。寒いところから急に飛び込んだせいか、むせ返るような熱さである。淡い電灯の光によく見れば、幾条かの太いパイプが横たわっているだけで、湯船らしきものもなく、金属製の洗い桶があちこちに転がっている。おまけに先に出て行った子供たちの忘れもの?であろうか、黄色く積もったシロモノが点在している。感覚ゼロに等しい我々も場所柄かあまりいい気持ちはしない。そしてこれらの箇所を避けるようにしてベタリと座る。
 もう通訳の説明を聞くまでもない。ジッとしていてにじみ出る汗に、半年分のアカが体中に浮いてくる。チョロチョロ出る湯をくみ取って、サイコロのような石けんで洗っては流し、流しては洗うが、次から次へと汗とアカは浮いて出る。やがていい気持ちになった連中が
「今落としているのは最近のアカだ。これから落とすのは二ヶ月前のだ」
「俺は今車中のアカを落としている。これから満州のを流すんだ」
等々、総ての労苦を忘れてこの一時を楽しんでいる。黙って笑いながら流していた私も、つい釣り込まれて
「オイオイ、半年分を一度に剥ぐと風邪をひくから、いい加減にしとけよ」
と冗談を飛ばせば、久方ぶりにどっと笑い声があがり
「そのとおり、そのとおり」
とどの声も喜びにはずんでいるようである。だがこの喜びの陰に何人かの高熱患者がいる。収容所の板の寝台に寝ているだけでも苦痛であろう。その彼らが雪の夜道を四キロも行軍し、クタクタになった体を長時間蒸されることは耐え難き苦痛であろう。比較的元気な我々さえも、こう蒸されてはたまらないという気持になりつつある。
 しかし第一の目的がシラミ退治である以上、一定の時間が来るまでは出してはもらえないのである。たまりかねた一人が頭を水で冷やしながら
「早く出してくれないかな。苦しくて死にそうだ」
と悲鳴を上げている。

片手落ちな消毒

 完全滅菌に要する時間は四十分くらいと聞いたが、もう一時間も経ったような気がして、今までの楽しさも次第に薄らぎ苦痛さえ感じてくる。シャクに障った誰かが
「あいつ等の気が知れないや。毛布や着物などいくら消毒したって、ここの所のシラミの卵は死にはしないや」
と言って、陰毛をボリボリかいている。確かにその通りである。頭髪、わき毛、至る所に二世が宿っている。また収容所の寝台の板の割れ目などは南京虫の巣窟であり、シラミ族の逢い引きの格好な場所である。いくら衣類の消毒を完全にしても、これらの箇所を放置したのではその目的は達成されないからである。感謝したいような当初の楽しさも吹き飛んでしまった一同が、言いたい放題のことをまくし立てている内、出口のドアが開いて
「出てもいいぞ」
と通訳の声がかかり、全員フラフラになって脱衣場に出る。そして開放された滅菌室から放り出された衣類をまとい、二組或いは三組に分かれた全員の入浴が済むまで、浴場の入口や軒下で再び襲ってくる寒さと戦いながら長時間待ち、総てのものが寝静まった夜中の十二時過ぎに帰途につくのである。

 シラミの駆除により伝染病の続発を防ごうとした折角の収容所側の厚意も何ら功を奏することがないばかりか、弱り果てた身体を長時間蒸すことにより体力の消耗に拍車をかける結果となった。そして浴場或いはその途中に於いて倒れる者が続出し、所内に於いても犠牲者の数は日を追って増加した。週一度或いは十日に一度くらいのこの入浴を何時しか殺人風呂と呼ぶようになり、ほとんどの者がこれを敬遠したのであるが、収容所側は一向に意に介することなく、重症で動けぬ者を除く全員を強制的に駆り立てたのである。

間接的な抹殺?

 誰言うともなき『殺人風呂』。しかしその反面『伝染病を予防せんとするソ連側の厚意』。この二つが頭の中で交錯する。
「我々捕虜を間接的に抹殺するのではないか」
という一部の声は、結果的に見ればうなずけないこともない。しかし戦いが終わった今日、たとえ捕らわれの身とはいえソ連側にこのような意図があったとは国際法的に考えづらいことである。
 強いられる入浴、そしてこれが為の犠牲者の増加等、悲観的観測をすればきりがなく、自然生きる望みも薄らいでくる。しかし、彼らが真に我々の死を歓迎するのであれば、入浴を欲している一般ソ連人を退けてまで我々に入浴をさせないであろうし、重症患者の入院も認めないであろう。
 入浴を終えてクタクタになった身体を寝台に横たえた私は、上段の板を見つめながら
「そうだ、この度の入浴は結果的には感心できないが、我々の生命を守らんが為の措置であり、ひいては何時かは帰れるであろうことを裏付けるものである。他人はともかく、俺だけはソ連側のこの厚意を素直に受け取ろう。そして明日への希望を持つことによって生き抜くのだ」
と心静かに目を閉じれば、遥か彼方に一点の光明を見いだし、深い眠りにつけるのである。
 しかしその光明も静かに目を閉じている間だけで、飯盒の音に目を覚ませば必ず幾人かの永眠者を見、或いは脳症を起こした高熱患者が外套を着て毛布をまとい雑嚢を肩に真っ黒な飯盒をぶら下げて夜もすがら
「ダモイ、ダモイ(帰国、帰国)」
と舎内をふれ歩く姿を見る。そしてこれらの狂わしき患者は、時折収容所の高い板塀の内側に張り巡らされた鉄条網をくぐり、一歩踏み入れればたちどころに望楼から自動小銃の掃射を受けるはずの無人地帯に侵入する。そして、脳症患者なることを知る由もない監視兵の集中射弾に哀れにも狂いしままに散ってゆく。
「ああ、何たる宿命ぞ」
生きんがために辛うじて見いだした淡い望みも、この現実の前に夜明けの星と共に消え失せてゆくのである。

墓穴掘り

 ラ組の長をクビになった私は、雑役的屋外作業で毎日のように現場が変わった。そのため朝、門の所に整列してもどんな作業が待っているのか見当もつかず、現地へ着いて初めて分かるような臨時作業を続けていたのである。
「今日はどんな作業をさせられるかなあ」
「どうせ屋外作業じゃパーセントに変わりはない。気にすることはないよ」
入浴のため睡眠不足も手伝って充血した腫れぼったい目をしばたきながら、隣の者と話している内、総勢五、六十人の一人ひとりに土工用の器具が渡された。
「オイ、今日は変だぞ。ここで器具を渡されるなんておかしいぞ」
すると素早く感づいた一人が
「うーん、ことによると墓穴掘りだ」
と大きな声で叫んだ。
「墓穴掘り?ほんとか!」
オウムがえしに頓狂な声を出してビックリしている者もある。我々のこの組は未だ知らなかったが、他の兵舎の連中は毎日交代でこの作業に行っているということは聞いていた。今さら何も驚くことはない。ただ掘る番が来たまでで、掘られる番は未だである。とは言いながら己が命も明日をも知れぬ今の身であってみれば、誰しも表現し得ぬものが心の奥に秘められていることは否めない事実であろう。自動小銃を脇にした歩哨の
「ダバイ(出発)」
の声に、冷たい工具を手に何処にあるとも知らぬ墓地に向かって友の墓穴を掘るべく重たい足を引きずるのである。

 四月も間近い三月の下旬、白一色の大地も何時しか所々に黒い地肌を見せ、踏みしめる残雪も水気を帯び、かすかに春の兆しが感じられる。だが内地の春を思い浮かべる余裕もない我々は、道案内を兼ねた警戒兵の
「ダバイビストリー(早く歩け)」
の声を聞き、右手に遠くトラクター工場と大きな煙突のある火力発電所を眺めながら、墓穴掘りと死体運搬の馬ゾリ以外に誰も通らぬであろう道なき道を黙々と歩いた。歩み続けること一時間余り、遥か彼方に湖水の見える比較的なだらかな丘陵(丘陵とまで言えないが平地より幾分高めの感じ)に到着したのである。

埋め残る死体の山

 人間の死、そして全裸の冷凍人間。それは所内に於いて毎日いやでも見なくてはならない我々であり、半ば慢性化してはいるものの、広野の果ての墓地に来て、埋め残っている死体の山を目の当たりにした我々は愕然とし、クタクタとその場にしりもちをつく程の衝撃を受け、しばし呆然とするのであった。
 そして歩哨のダバイの声に我にかえった心ある者は、ソ連兵に叱られることも殴られることも忘れて、思わず両手を合わせ黙祷を捧げる。
「ヨッポニマエヤボンスキー(この日本人め!)」
どこで見ていたかソ連兵が来て、出し抜けに後ろからイヤという程突き飛ばし、死体の上にどっと倒れ、
「ボニマーイ、ボニマーイ」
と這々の体でその場を逃れる者もあった。
 ソ連人が何故か死人に対し手を合わせることやお辞儀をすることをひどく嫌い、生なき者に対し棒切れの如く振る舞いたがるのは、あながち捕虜に対してだけではないようである。

戦車壕のような墓穴

 長らしき長もないこの臨時作業の指揮は、警戒を兼ねたソ連兵の役目であった。墓穴掘りは初めての作業員と見てとった彼らは、我々を三メートル程の距離をおいて二列にし、一人ひとり適当な間隔に配置し、手真似足真似で深さ五十センチ、幅二メートル位の一連の壕を掘るんだと説明した。そして自動小銃を肩から背中に背負った一人が怪しげな日本語で
「サギョハジメ」
と命令すると、もう一人のソ連兵が
「ダバイビストリー」
と気合いをかけた。
 我々日本人は、埋葬と言えば特別な場合を除き一人ひとり別の穴に埋けると思うのが常識である。いくら全裸の死体をそのまま埋めるにしても、まさかゴボウ積みに埋けるとは思わないから、どんな要領で掘り始めたらよいかとためらっていた。すると私の隣にいたT曹長が
「あれを見ろよ」
と、昨日の作業員が埋葬したのであろう新しい一連の土饅頭を指さした
「やはり戦車壕みたいに長く掘って、端から並べるんだろう。それからね、向こう側のはゲルマン(ドイツの捕虜)の墓地だとよ」
と誰から聞いたかT曹長はドイツ人の墓地まで知っている。そして彼は元気のない声で、自分の命が今日一日限りであることを予知しているかの如くつぶやいた
「どうせ俺もここへ埋めてもらうんだから墓穴掘りの作業だけは良心的にやるよ」
こう言うと青黄色くむくんだ顔をほころばせながら、彼は重たいドームを凍土に打ち下ろし始めるのだった。
「そうだこの作業はパーセントには関係ないようだが、他の作業とは違うからな。出来るだけ一生懸命やろうよ」
と、私は弱り切っている彼を励ます意味も含め応答し、共に作業を始めたのである。
 しかし半年の間雪の下で凍り続けてきた大地の土は未だ硬く、半病人のような我々の振り下ろすドームの先など受けつけず、一回毎に小さな土塊がポロリとかけるだけで、遅々として作業は進まない。見かねたソ連兵が、我々の間隔を縮めさせ早く深く掘れとせき立てる。そして
「フシーコンチェルダモイ(あれを全部埋め終われば帰る)」
と死体の山を指さすのである。

 墓穴掘りの作業は確かにパーセントには関係ないらしい。しかし他の現場では見られない程の熱心さで、明日は我が身もここに埋葬されるやも知れぬ衰弱しきった人達までが、懸命に作業を続けたのである。しかし、労力の衰退を精神力で補うことの出来ようはずもないこの作業は、懸命の努力にもかかわらず徒に時間のみ費やし、夕刻近くになってようやく辛うじて人間を埋め得る位の深さに達したのである。

俺は絶対死なないぞ

 警戒厳重な収容所はもちろんのこと、人里遠く離れたこの墓地に於いても、体力的に我々捕虜の逃亡など考えられぬことである。二人の警戒兵は、退屈しのぎに時折側に来ては
「ダバイビストリー」
と気合いをかけ、或いは遥か彼方にたむろする少年達に威嚇発砲する。他に用もなく、日本人からダバイしたのであろう腕時計を見ていた一人が、死体の山を指さし
「ビストリダバイ(早く埋けろ)」
と命令した。
 来る日も来る日も灰色の雪空に覆われるシベリアも春の訪れと共に陽の目を見るようになり、今日もまた赤い太陽が、今にも地平線の彼方に沈まんとしている。
「オーイ、埋葬しろとよ。埋けるんだってよ」
かつて軍国主義華やかなりし頃の歌の文句ではないけれど、赤い夕陽の満州ならぬシベリアで、友の塚穴を掘っていた一人が声を大にして叫んだ。するとあちこちから
「だめだよ。未だこの辺は浅いから手が出てしまうよ」
見れば人間を埋めるに必要な最小限の深さの五十センチにはほど遠い箇所がざらにある。
「もう帰る時間が来たのだろう。奴らが埋めろと言うんだから埋ければいいじゃないか。もし手足が出たら、そこだけ高く土をかぶせればいいよ」
早く帰りたい一心から勝手なことを言う奴もいるが、疲労と空腹と寒さ、そして誰しも好まぬ死体の処理、一刻も早くこの場を立ち去り、収容所に帰りたい気持ちに駆られるのは無理からぬことであろう。だがその実、いよいよ死体を穴に運ぶ段になると、皆尻込みをして手を出そうとはしない。鉄棒のように固くなった冷凍死体。足を持つ者と頭を支える者の二人で容易に運ぶことは出来るが、収容所のしかばね室からここまで馬ゾリに積まれてきた全裸の死体は、その姿があまりにも変わり果て、かけられたロープの跡か皮膚が破れて肉をむき出し、途中で崩れて引きずられたのであろうか、顔や手足の肉もすり落ち骨まで露出している。
 かつては千軍万馬の猛者も、この形相を見ては瞬間手も足も出し得ず、
「ちくしょう、酷い扱いをしやがって!」
と同胞として思わず口走る無念の一言と共に、顔をそむけるのである。飢える身に過酷な労働を強い、遂に精根尽きて息を引き取ると同時に裸体にするだけでも、無情極まりない。その上にソリに積んで赤剥けになるまで引きずるとは・・・・・・・
「ウウム、俺は死なないぞ、ここでは絶対死ぬものか!」
と心に誓い、冷たいドームも折れよとばかりに握りしめた者は私一人だけではないであろう。

哀れな埋葬

 帰る時間の迫った警戒のソ連兵は、穴の浅いことなど問題ではないらしく
「ダバイダバイ」
とせき立て、足を持って引きずってゆけという意味のジェスチャーまで示すのである。そして開いている口の中に土が入らぬようにと、佛に対する思いやりから口を閉じさせている者達を見ると怒鳴ったり足蹴したりして、死人を丁重に弔うことを好まぬ彼らは、浅い箇所に露出する手足を足で踏みつけ
「ダバイスカレー(早く土をかけろ)」
とヒステリックに怒鳴り散らすのである。

 総勢数十人の作業員が昼食もなく休憩もなく、懸命に作業を続けたのであるが、凍土に挑むにはあまりにも衰え過ぎた体力が作業の進捗を拒んだ。積み重ねられた全部の遺体の埋葬を終えたのはたそがれ近い頃で、犬の遠吠えか狼の鳴き声か不気味な声が彼方湖畔の方向から、風に乗って遠く近く聞こえて来るのであった。

死体に群がる少年達

 形ばかりの埋葬を終えた我々を五列に並べ、人員を調べた二人の警戒兵は、段々近づいてくる彼方の少年達を威嚇しながら
「ダバイ(出発)」
と命令した。そして四、五十メートルも歩いたところで、一かたまりの人馬を見つけると、いつの間にか覚えた日本語で
「トマレー」
と大声を発して我々を停止させた。
「あれは死体運搬のソリだよ、きっと」
耳元でT曹長が弱々しい声でささやいた。なるほどよく見れば正にその通りで、十二、三人の全裸の死体が、黒皮を剥かれた丸太ん棒のように、無造作に太いロープでゆわかれている。
 死体と同乗している隠坊屋は、我々の前まで来ると手綱をしめ馬を止めた。そして協力を求めるのか警戒兵と二言三言言葉を交わし、墓地に向かって走り出した。
「ああ、あの人は毎日のようにしかばね室に死体を取りに来る人だ。これがあの人の日課なんだね。あんまりいい仕事ではないねえ」
と誰に言うともなくつぶやけば、側から
「あいつらは少しも感じやしないよ。神も佛もないんだから」。
なるほど入ソしてから未だ一度も宗教らしきものを見たことがない。神仏というものがなければ祟りを恐れる必要がないし、また幽霊などというものは全く考えも及ばぬものであろう。人間も生きている内だけで、命尽きれば一個の物体と割り切れば、この隠坊屋さんの仕事もまた楽しからずやである。
 警戒兵は我々に向かい
「ダバイ、ビヤッチチヨロベーク(四人出ろ)」
と命令したが、誰も進んで出ようとする者はいない。やむなく前に出た私は、一番後ろの列の三人と共に、停まっているソリに近づき、ロープを外して二人一組となって死体を下ろし始めた。すると隠坊屋が突然大きな声を出して
「ヨッポニマエイジターム(この野郎ども、向こうへ行け)」
と怒鳴った。怒られたと思った私は
「パチエム(何故か?)」
と問い返せば、隠坊屋はニヤニヤしながら首を横に振り
「ニエー、ニエー、スマトリー(違う、違う、あれを見ろ)」
とアゴをしゃくる。見れば昼間から遥か遠くの方にタムロしていた少年達である。しかも手に手に何か持っていて既に暗くなりかけているのになかなか立ち去ろうとしない。隠坊屋が私の金歯を指さしながら手真似足真似して説明するには、あの少年達は作業員が帰ってから、こうして新たに運ばれた死体の口から金歯を抜きに来るとのことで、手に持っているのはこれに必要な器具であろうという。
「ああ、これで分かった。作業警戒兵が何のために少年達に向かって威嚇射撃をするのかというわけが・・・・」
死体を下ろし終わった私は、身の毛もよだつ思いで、待っている列に加わり、黙々と帰途についたのである。

 国のため、陛下のためと潔く死地に赴き、辛くもしかばねを野辺にさらすことなく生あって大命による終戦を迎えた我々は、今は、陛下ならぬ異国の大命の下に、再び死地に追いやられているのである。そして精根尽きた者に対するこの仕打ち。しかも年端も行かぬ年少者が、金を欲しさに死体に群がるとは・・・・・。人間として想像も及ばぬ光景に背筋に冷たいものを感じつつ、収容所の門をくぐったのは七時も過ぎる頃であった。

自分の墓を掘ったT曹長

 一夜明けた翌朝、飯盒の音で目を覚まし、顔を洗うこともない私は寝台の上に座って
「墓穴掘りはもうたくさんだが、ことによると今日もさせられるかも知れない」
と一人もの思いにふけっていると、朝食の分配をしていた当番が、突然
「T曹長が死んでるぞ」
と叫んだ。
「ええっ、ほんとか!」
余りのことに私も思わず大きな声を出して、つかつかと彼の寝台に近づいた。見ればいつの間に永眠したのか、既に事切れている。
「昨日の作業であんなことを言ってたが、まさかこんなに早く死のうとは彼自身も思っていなかったであろうに・・・・。今となって思えば、二つ三つ年下の彼は、私のどこが良かったのか常に慕っていたような気がする。妻君をもらったばかりで、故郷は高知とか言ってたが、可哀想なことをしたものだ」
と心の中で思う内に
「そうだ、今日はTの墓穴を掘ってやろう。うんと深く」
今の今まで、穴掘り作業を敬遠していた私の気持ちは逆転したのである。

この世の閻魔

 朝食を終えて整列した私は、期待通り二日目の穴掘り作業を命ぜられ、親しき友の塚穴を掘るために現地に着いた。隠坊屋の言ったことが気にかかり、昨夕下ろした死体を、見たくはなかったが真っ先に見てしまったのである。
「ああ、やっぱり・・・・・」
私は思わず己が口に手を当てて愕然とした。行儀よく並べたはずの死体の位置が、少し変わっている。金歯でも入れていた人であろうか、口元から歯茎にかけて異常をきたしている。
「ううむ、さては昨日の少年達か、否あの世の閻魔大王ならぬこの世の餓鬼どもが、地獄の一丁目で佛の金歯を抜き取ったか!」
神も佛もない、とは昨日誰かが言ったばかりだ。死体に手を合わせれば殴られる。丁重に弔えば怒られる。
「一体この国には宗教のかけらもないのか?ソビエト憲法には信教の自由は明示されていないのか?」
哀れな姿の友を目の当たりにし、興奮した私は知りもせぬ他国の憲法まで疑わざるを得なかった。

金歯は食った方が得だ

 歩哨の
「サギョハジメ」
の号令で作業開始はしたものの、未だ興奮から覚めやらぬ私は、やり場のない気持をドームに託し、やがて運ばれて来るであろうT曹長達の埋葬も終えられるよう、懸命の作業を続けていた。すると、かたわらの一人が
「ずいぶん熱心だね。余り無理するとT曹長のように自分の墓穴を掘ることになるぜ」
と注意してくれるので無言でニヤニヤしていると、私の口元を見て今度は
「金歯は早く食っちゃった方がいいよ。うまくいけば五百グラム位にはなりますよ」
と経験があるのか、数字までひっぱり出しての親切さに、ついつり込まれて
「確かにその通りだね。死んでからハンマーでこづかれて抜かれるより、食える内にパンにした方が得策だね」
などと冗談とも本気ともつかぬ会話をしながら作業を続けた。新たに運ばれたT曹長以下十体余りの遺体も、夕刻近い頃にはその全ての埋葬を終え、昨日にひきかえ今日は心おきなく帰途につくことが出来たのである。

 入ソしてから既に半年余り、極寒満州の地に於いて鍛えられたはずの我々も、ここシベリアの言語に絶する寒さと食糧に比例せぬ過重なノルマ、加うるに施設の不備による死亡者の続出は如何ともし難く、その数は既に収容人員の三分の一の千人を突破するのではなかろうかと思われる程の現況に、遂にソ連側から作業中止の命令が出されたのである。

死者続出による作業中止

 入所以来休日らしい休日もなく、疲労困憊その極みに達していた我々が、食の次に欲するものは休養であった。そしてその待望の休養が、春の兆しも日毎に濃くなって来つつある昭和二十一年四月一日、幾多同胞の犠牲の下に、生ある者の身の上に一つの光明となって降り注いできたのである。
「オーイ、いよいよ明日から作業中止だってよ」
と耳ざとい者が大声を上げれば、
「えっ、ほんとか?さてはダモイかな!!」
と気の早い連中が、休養のための作業中止とダモイとを勝手に結びつけて騒ぎ立てる。異国の土と化しゆく親しき友の死などうち忘れ、舎内は文字通りのてんやわんやである。本部通訳から詳細な説明を聞いている私は、あまりにも単純な兵達のこの状況を見て
「喜びたい者には、もう少し喜ばしておこう。どうせすぐ分かることだから」
と心を決め、入ソ以来初めてであろうこの雰囲気を一人心の奥で苦笑いしていたのである。すると寝台の下段の方から
「明日からの作業中止はダモイのためではないよ。このまま作業を続ければ、我々日本人は死に絶えてしまうから、一ヶ月間の休養をさせるんだよ。それからまた作業さ。ダモイとは全然関係ないよ」
誰から聞いたのか、物知り顔に大声でしゃべったからたまらない。
「ううん、そうか!我々をここまで連れてきた以上、そう簡単にダモイさせるはずはないと思ってはいたが、やっぱりそうなのか、ちくしょうめ!」
一人合点でダモイと決め込んだ奴が、今度はまた勝手に悔しがっている。かと思うと
「ちぇ、休養か。我々を何時までも生かして長く働かそうという魂胆か。これじゃあ、一生帰ることはできないや」
等々、一瞬にしてなごやかなその場の空気は、重苦しい低気圧と化してしまったのである。
「あいつ、余計なことを言ってしまったものだ」
と思いながら、食事分配のための土間の広場に降り立った私は、全員に聞こえるように
「オーイ、みんな聞けよ。今聞いた通り明日から一ヶ月間、作業中止だ。確かにこれはダモイとは直接関係はないらしいが、生きていれば何時かは帰れるであろう。通訳の話によると、作業中止の一ヶ月間に所内の施設を改善するとのことだ。また食糧も大分増配されるらしい」
「ええ、食糧が増える?ほんとか。スパシーボー(ありがとう)!」
増配と聞いたものだから、私の話を中断させて夢中になる。中には手を叩いて
「アーリガータヤアリガタヤ」(そんな歌はなかったが)
小おどりして喜んでいる者もある。私は話を続けた
「エー、それから錬成隊というのをつくって、特に身体の弱い者を一箇所に集め、健康体になるまでは作業再開後も軽作業をさせるとの話だ。で、このことはさっきも言ったように直接ダモイとは結びつかないが、これによって生き抜くことが出来れば、少しは関係があるというものだ。私はいつかは帰れるという事だけは、ハッキリ言えると思う。これからは陽気も段々良くなることだし、この機会に出来るだけ体力を回復させると共に、大いに希望を持つんだ。そして、その希望によって苦境に打ち勝つのだ。食糧の増配、休養、今の我々にとってこれ以上の朗報はないだろう」
まるで、かつての軍隊の精神訓話のような口調で一気にまくし立てれば、未だ諦めきれぬ一人が
「ううむ、これでダモイならなあ・・」
とため息をついている。

おわり

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